「くさい」と「見ていられない」のか?

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120301
なぜ過剰な演技などを「くさい」というのだろうということを少し考えたが、これはその演技が表面上は間違っていないからなのではないだろうか。表面上は、ということはつまり視覚的には、ということである。


つまり嗅覚は視覚以上に主観的なものであるから、それをくさいと思わない人、または多少わずらわしくおもってもそれを表に出さない人もいる、ということである。


小谷野さんの坪内祐三いじりの場合は、文学ファンだったら知っていてよさそうな人物のことを坪内がとぼけとおしてコラムを書いたことをあてこすっているわけだが、こういうのは「くさい」と呼べるのだろうか。安部ヨリミが誰だか名前だけではわからなかった私は、ごく普通に坪内のコラムの読者対象であることになる。ようするにくさいとは特に思わない。こういう文章にいちいち驚いてみせる読者のありようこそ、30歳で卒業しているべきものだろう。小谷野さんとしてはちょっと微妙な物件を、ごりおしで自分の見立てに従わせようとしてしまったのだと思えるのである。


要するにくさいというのは感性に根ざす感覚であり、知っているかどうかにかかわる評言ではないのだということだ。「知ってたもん!」と言いたくて、私のような素人さん向けにわざと驚いて見せているプロを「くさいぞ」と囃すのはどうかと思うのである。


山口果林がすでに手記を書いていて、それが希少なかたちであれ既に流通していて、その上で「読みたいね」と思うのであれば文章の流れとしておかしくはないが、そうでなかったら、これもなんだかおかしなものだ。安部ヨリミの場合と対応しない。