『乾いた花』(と、『メランコリア』)

かなり特殊なやくざ映画で、やくざの悲しみとか無理解な親分への反抗とか、そういうやくざ映画の定型らしきものはいっさい描かれない。たいていの物事への関心を失った主人公が、唯一自分に興奮を与えてくれる物事、つまりリスクをかえりみず無軌道に生きる若者に憧れる様を描いている。


これは原作者である石原慎太郎にたいして多くの読書階層の人々が不審に思っているであろう彼の特徴「悲哀感情の欠落」について、じつに明瞭に指摘している映画作品であって、そういえば監督の篠田正浩にもそういうところがちょっとある。少年期に戦争を体験してしまった人が、その衝撃に適切な感情を付与できずに青年期を迎えてしまうと、あるいはこのような世界観を抱くにいたるということなのだろうか。


石原にしろ篠田にしろ、裏返しのヒューマニストなのではないかと私は思う。親分の命令に唯々諾々と従って、敵対的な行動をとる興行主を主人公の池部良が刺殺するシーンは、とても衝撃的だ。自意識過剰な人物が、しかし外面的にはまったく自意識がないかのような行動をとる。この逆説を社会に向かって叩きつけたかったのだろう。粗暴であることにも内面があるのだということを、石原は信じたかったのだろう。これを本当に実行してしまったのが、後の連合赤軍だったりするわけだ。


人間は社会のある一部に愛着を感じて、それを自己の一部としてアイデンティファイして生きていくものであるが、たぶん物語がはじまる以前の出来事によって主人公は挫折を味わって、そこから抜け出ることができなかったのだろう。その抑うつ状態を、主人公はなぜか抑うつとして認識せずに「退屈」と言い表してしまう。主人公は殺人を犯したことによって、逆説的に、殺人すら大した事ではないことを実感としてわかってしまう。


この映画の最大の嘘は、石原や篠田より一回りほど年長の俳優である池部良にあの主人公を演じさせたことである。ちんぴらやくざたちが主人公の男っぷりに憧れるシーンがあるが、憧れられる対象と憧れる主体が、じつはともに作者たちの分身なのである。昭和一桁世代の自我の葛藤は、合わせ鏡の無間地獄なのであった。


すこしまえに観た『メランコリア』と、『乾いた花』はちょうど真逆の映画であるかのようである。『乾いた花』の世界には鬱病という概念がないのである。『メランコリア』の世界は消滅することが必至のものだが、『乾いた花』の世界は終わりなき日常の地獄である。『メランコリア』の世界にはつねにワーグナーの甘美な音楽が響いているが、武満徹の無機質な音響がつねに鳴りひびく『乾いた花』の世界では、スリルの極致であるような殺人の瞬間にだけパーセルの潤いにみちた音楽が流れることが許される。『乾いた花』の主人公がうなされたような混濁した悪夢が『メランコリア』のジャスティンを襲うことはない。