場の理論

映画状況論みたいなものにはあまり関心がなく、わたしは映画それ自体も好きだけれども、どちらかというと観た映画から時代の傾向などを抽出することに楽しみをおぼえるほうなので、だからこのブログも映画を評論しているつもりは薄い。自分がじかに経験したことから意見をひきだすのは、主観にかたよるおそれがあるので、わたしの「経験」をあなたも(数百円のレンタル代で)共有することができる映画に対象を限定しましょうか、というほどのことである。


この20年ほどは、テレビ局映画のゆるやかな退潮期であったというべきか。『優駿』や『タスマニア物語』の80年代から『ナースのお仕事』や『踊る大捜査線』の90年代、ゼロ年代があった。金銭的には退潮期とは呼べないのかもしれないが、内容的には退潮期という気がする。これは70年代が幼少期だったわたしの懐古趣味から発している感想にすぎないという可能性もあるが、ようするに映画から風景が消えてしまったと思うのである。メジャー映画が失ったものをマイナー映画が補充するというのが80年代あたりからはじまった傾向で、社会が豊かなうちは、メジャーとマイナーをそれぞれ目配りすることで、映画を豊かなものとして楽しむことができたが、このように分業化を進めてしまうと、不況がすすむとすぐに映画が中途半端なものになってしまうのである。そしていまは不況もいきつくところまでいってしまったわけで…。


ネット環境の発達は、啓蒙ということにもさらに細かな分業を導入してしまったようで、要するに蒙昧を捏造してこれを啓発する陰惨な風景が発生したわけだが、わたしはこれを困ったことだと思いつつも、思想の自由ということもあるし、このまま破滅までいくしかないかとあきらめているくちである。こういう状況の犯人が、あるいはヒューマニズムなのではないかとわたしは疑っていて、だからイーグルトンなど読むのである。


アメリカ人が90年代にDLP上映のスペックに驚いて、だったら撮影の段階からビデオにしちゃって、現像の手間を省こうよ、と考えた結果が今現在進行している劇場映画のデジタル化である。考えようによっては、20年近くかかってしまったともいえる。


結局のところ、わたしはデジタル系の特撮はあまり好きではなく、マット合成への郷愁など、いまだに根強くある。デジタルを駆使した映像は、結局他人の頭の中をじかに見せられているようなもので(画面に実現しているのは計算の結果でしかないのだし)、つまらないのである。『トロン:レガシー』の凝り性には感服したが…。しかし、こういう感覚も80年代を幼少期に過ごしたわたしの個人的な感想にすぎないのかもしれない。


なにをプアであるとみなすのかの基準は時代とともに変わるものであって、最近はフルHDの映像が安価に手に入るようになったので、低予算映画(自主映画という言葉はあまり使いたくない)の状況がかわりつつあるが、なにしろ不況のせいで、低予算映画まで目配りしようという好奇心をもった層が薄くなってしまっているので、低予算映画を作っても、映画状況全体にたいするインパクトが弱くなってしまっている。


娯楽というのは超時代的な側面があり、情報化が発達した現代は、過去の作品が新作のライバルになっているという状況もある。『隠し砦の三悪人』や『椿三十郎』など、オリジナルの黒澤作品がいかに優れているかを主張するためのあて馬のような存在ではなかったか(もうお忘れかもしれないがどちらも数年前に公開されたリメイク作)。脚本家が書いた物語を俳優が演じて撮影監督が映像にし、監督が映像に一貫性をあたえて映画に仕立て、プロデューサーが全体を統括し、観客がそれを観て楽しむという循環が今現在も成立しているのかどうか疑問である。この時代にしかできない映画をつくり、そして観ることに、観客を含む関係者みなが及び腰になっているのではなかろうか。