町山智浩対上杉隆

なかなか面白かった。


公金横領だか着服だかについて、公人のほうに潔白であることの立証責任があるとは個人的には思わないが、法律上どうなのかは知らない。


ソース記述の画面が、映画の『逆転裁判』のCGみたいに、バババと画面に表示されたら愉快であったが、さすがにそういうわけにはいかない。


上杉隆が、情報の出典を先にしめさずに煩瑣な背景説明を滔々と冗漫に述べるのには困った。また、実際に人事や編成を差配する人物を蚊帳の外においたまま、取引先である町山と上杉が取引相手であるTBSの話をしたのは、これはちょっと面白い。


有料のメールマガジンで、他所からよせられた質問にこたえることの是非は、上杉の言い分にも一理あると思った。公開でやるべきというのはマナーにとどまっているからだ。義務ではない。なぜ本や雑誌で有料で主張するのはよくて、有料のメルマガでそれをするのはいかがわしいことになるのか、というのは、もっと言われていいと思う。


表現と情報の区別ということに関しては、上杉の考え方について私は疑問がある。報道文という著作物の著作権者として、上杉が町山による著作人格権の侵害(うろおぼえで自分の書いた文章の内容を間違って紹介されること)を抗議するのはいい。しかし、事前にみずからが生成したテクストを相手が読んでいないことをもって、議論が成立しないというのは、どこかおかしい。対話なのだから、情報の乏しい相手には、自らの立論の根拠とする知識や経験、理論について手短に紹介し、伝達できなければならない。それこそが言論のルールであろう。


とはいえ、表現しなければそのジャーナリストが正しい情報をもっているのかどうか、第三者には確認のしようがないし、表現と情報の価値観の違いは、これは難しい問題であることは疑いない。ジャーナリストは表現をすることで利益を得るが、ジャーナリズムの利用者にとっては、かれの表現によって伝えられる情報が、利用者に知られていないことが、利用者が情報の費用をジャーナリストに支払う条件となる。もう知ってしまっている情報に、人はふつう更に金をはらいはしない。訂正を適宜おこなうことでジャーナリストは信用を維持するが、先行して販売していた商品が不出来であったことを認めることにもなる。