吉本隆明

これもsheepsong55さんの文章に触発されて書くものである。
吉本隆明に、詩人、思想家、批評家、時論家の相貌がそれぞれあったとして、私が唯一親しんだ

のは時論家としてのそれだった。また、私は視覚的文化全盛期に生まれ育った人間だから、吉本については

電波少年」での洗面器パフォーマンスや、小林よしのりに揶揄的に描かれたマンガのモデルとしての印象が

さらに強い。まだ高校生のころ、私は筒井康隆の読者で、彼の断筆宣言を浅田彰が批判して、それをさらに

吉本が批判するといったことがあって、池袋のリブロで吉本の文章が載っている雑誌を求めたことを

覚えている。昨日、吉本について人と話をしていて、私はつい吉本のことを老いて忘れかけられた存在

として言及したのだが、話相手によると、糸井重里が自分のサイトでさかんに吉本をゲストに
迎えていたそうで、いまでも一定の認知はあるのではないろうかとのことだった。

糸井のサイトは、言われてみれば私も一回見たことがあったような気がする。よぼよぼの吉本を

中継の映像を介して会場の観衆の前にさらし、糸井が吉本にインタビューを試みていたような
気がする。ただし、この記憶には自信がない。当時見た映像の印象がどこか陰惨な感じのもので

できれば忘れてしまいたいたぐいのものだったからだ。死体でかんかんのうを踊る糸井の図

を見るようだった。

sheepsong55さんは80年代以降の吉本の思考に、老いや迷いを見るようだけれども

私は、なにかで吉本が書くか話すかしたものを読んで、吉本は主体が細分化される歴史を

昭和と伴走しながらながめてきただけなのだな、と思って深く合点がいった覚えがある。

吉本に男児がいなかったことは、彼の思考に大きく影響したことだろう。

男子の父としてのペルソナを被ることなく世界を眺め、思想を練ったことが吉本のアドバンテージ

としてあったのではないだろうか。

吉本に心酔したのちに吉本に反発する一群の人々というのがいて、この人たちがだいたい男性
だというのが、私にはどこか示唆的であるような気がする。父親というのは、案外複雑なもの
で、男児の父と女児の父はまるで別物なのだ。読者のマチズモを伸ばしてあげられない書き手として吉本を

研究するのも面白いかも知れない。