欺瞞言語と東大話法

戦後社会の最初の欺瞞は、やはり戦後憲法天皇の扱いにあるのではないか。


安冨は『原発危機と「東大話法」』で、戦後の配給のようすを写した写真を掲げて、戦争中のマインドコントロールが解けた人々は、こんなに屈託なく笑うのだという趣旨の説明を行っているが、本当だろうか。戦争中だって人は笑うときは笑っただろう。


私が再三言っているのは、戦後日本が民主主義というのは大嘘だから、日本は立憲君主国なのだと事実を諸外国に表明するか、天皇を退位させて本当の民主主義国家になってくれ、ということである。私自身は反天皇制だが、べつに天皇制をやめたからって日本がよくなるとは思っていないから、とくに現状の天皇制を転覆させようとは思わない。しかしだったら立憲君主制の看板を掲げてくれよ、というわけ。


私は、仕組みを変えたら損する人が必ず出るのだから、仕組みを変えるときは慎重になったほうがいい、という感覚を持っている。不当利得を得ている人の利益さえ、いきなり剥奪するのは、それはもうひとつの悪である。


戦争に勝ったアメリカは、占領地運営の見地から、案外日本(のエスタブリッシュメント)に都合のいい憲法改革案をよこしてきて、それは、直接には東大話法ではないけれども、結局は権威者の欺瞞言語であったことは疑いようがない。


憲法上は天皇の存在を日本国民が望んだことになっている。本当はアメリカと日本のごく一部のエスタブリッシュメントだけが望んだのである。しかし、その「本当」をどのように立証するかが難しいわけだ。


東大話法というのは、結局は、半権威者の欺瞞言語であるということになるだろうか。権威者は国民で、その象徴、つまり可視化された存在として天皇がいる。権威者から権能を付託された存在として官僚や高級アカデミシャンがいる。


丸山真男をどう考えたものかというのは、いつも悩むところで、私の世代には彼をひっぱたきたいとまで言う人もいるし、私じしんは、どちらかというと、学園紛争のときに彼の研究室が荒らされた事件など、丸山がかわいそうだなあ、という感想をもつのだが、しかし、彼が戦後日本の最初のデマゴーグであることは、なんだか疑いえない気がするのだ。デマゴーグといっても、民衆を暴動に煽る類のデマゴーグではなくて、与えられた日常を甘受せよと民衆に強いる類のデマゴーグ。戦後日本は、丸山真男を否定しかかるところまでいったのだが、代案が出せず、代案が出せなかったという屈辱を抱え込んだまま、不細工なマスコットとして丸山をその手にしっかりと握り締めていまも手放さない。


やはり、外側の物事を知って話す大学教授の言葉のほうが、自分のなかのイデオロギーにのみ従って話す論客の話より、信頼できて安心だ、ということだったのだろうか。しかし、それはものすごくセコイ話なのではなかろうか、と思うのである。


日本の民間人は、まずなによりも、民間であることの本質がわからなくて不安のただなかにいるしかなかった。自分のありようだけを、普遍といいつのるわけにはいかないし。そういう、一見上品だがしかしほんとうは臆病でしかない顧慮をふりはらうことができなかった。だから、一部の半権威者によってその鼻面をいいように引きずりまわされたのである。自分たちが名目上の権威者だったというのに。自分たちが自らの分限を知らない。だから不安に苛まれるしかない。