『恋愛の昭和史』

もしかしたら部分的につまみぐいしたことはあったかもしれないが、通読するのははじめてだと思う。


近世から明治初期をへて、家庭小説が文藝の世界に台頭する時点から、詳細に大衆文学や一部純文学を論じて、読者大衆や、あるいは純文学を愛好するエリート層の恋愛観を探っている。


小谷野さんがわりとひんぱんに「恋愛の後」ということに注目するのが、よくわからないところで、ふつう恋愛研究といったら恋愛現象の分類や分析に終始する、本質的に軽薄なもの(ようするに恋愛成就後のことは扱わない)を連想するのだが、小谷野さんは、恋愛に付随する孤独のような感情まで恋愛論のフィールドで語ってしまおうとするから、妙に複雑になってしまう。


その複雑さを無理に補償しようとして、あまたの仮想敵をくりだす。この本のあとがきに、近代西洋は愛という言葉を誤用しているという議論を行っているのを読んで、ちょっと暗澹とした。素直に「人生研究」とか「人間学」とか名乗ればいいようなところを、「恋愛研究」に包括してしまうから、フェミニズムに難癖をつけるようなことになってしまうのではないか。


私はあんまり自己啓発本とか恋愛マニュアル本とかに触れることなく、かえってそういうものを軽侮するくらいの心境であったが、いまは、そういう感覚をいだいていたかつての私こそが軽侮に値する存在であったと思うようになった。本を読んで参考にすることのなにがそんなに恥ずかしいというのか。


私は本は好きな方だと思うのだが、自分の道徳観を試す場として(文芸書を)読書することがなかったのだなあ、としみじみ思った。自分の心が欠損をかかえていることをこの本を読んでいてしみじみと感じたのである。だから、この小説のああいうところが好き、こういうところが嫌いという感想を持つことができないのである。他人は他人、自分は自分だから、他人の行状を額面どおりに受け取らねばならない。


心に欠損をかかえていたり、心そのものが壊れていたら、嘆くより前に、心を育てるしかないのだろうなあ、とぼんやりと思う。いま聖書をつまみぐいしているのだが、聖書はなかなかよくできている。悪くない。ジッドの小説は、読んだことがないのだが、たぶんに教会の犠牲者であるにすぎない書き手のやつあたりといった側面もあったのではないか。


漱石のころと、宮本百合子のころと、渡辺淳一のころと、それぞれの時期と今とでは、本を読むことの意味が大幅に違っているだろうことを思う。かつては、ごくごく単純に、自分の心の鏡として(鑑として)、本を読んだのだろうか。


人は現世に生きて、倫理や道徳を介して他人と関わるわけだが、その関わりを「排他的」と評する小谷野さんの発想が、なんだか不思議なのである。


この本では主役である恋愛に対して、わりと脇役として扱われている「結婚」と「書物」。こちらのほうにこそ近代日本を解く何か重要な鍵のようなものが潜んでいると思うのだが。