ユング

心は意識よりも広くて、意識では捉えられない心の部分が、無意識から夢や象徴のかたちをとって表れてくる、というのは、まあ、わかる。


ようするに、そういう不可知部分を形式化すると、言説は一挙にあやしくなる、ということなのだろうな。私はフロイトの自我構造論も、あまり信用してはいない。


個性化や錬金術など、ユングの言うことでもとくに眉唾におもわれる話題を、しかし、とりあえず読んでおくことはしておこうと思ったのである。


ユングは1961年に死んでいて、映画の残酷表現が急激な発達をむかえる直前に亡くなったとも言える。彼が『椿三十郎』や『ワイルドバンチ』、『ナイト・オブ・リビングデッド』、あるいはぐっと時代が下って『ブレインデッド』などを見たら、どんな感想をもらすのか、聞いてみたい気がする。


ちょっと面白い気がするのは、私たちが、過激な残酷表現に親しみつつも、80年代だったら宮崎勤の事件、現在だったら東日本大震災の犠牲者らを慮って、事情に応じて適宜残酷表現の視聴を控えることである。これはあるいはユングの神話論の対象なのかもしれない。私たちは虚構に親しむ形で、いけにえを欲し、現実にいけにえが現れたら(表れたら)、自分たちがいけにえを欲していたことを抑圧し、自粛する。この繰り返しのダイナミズムによって、生の実感を構築しているのではないか。日々、みずからの肝を試しているわけだ。