マンダラをほどいたものが映画?

ユングは1875年に生まれているから、1856年に生まれたフロイトよりも映画に親しんでいたのではないか、というのは私の勝手な思い込みだが、20歳のころ映画の誕生を迎えて、トーキー化を遂げたころでもまだ60歳にすぎなかったユングの人生はたしかに興味深い。


ユングの本を読んでいて、マンダラを時間軸方向にほどいたものが映画である、というアイデアが浮かんだのだがどうだろう。つまり映画は映画で一面性を持っているが、それは90分なり120分なり「しかない」がゆえの一面性であって、その一面性はマンダラに通じる一面性なのではないか。一日の活動時間が16時間だとして、16時間の映画があったとすれば、それは映画であると同時に、時間軸方向に展開されきったマンダラとも呼べるのではないか。