ゴジラ第一作

ユングの本を読むのに疲れたので気晴らしに見たのだが、通してみるのは初めてで、こんなに含蓄にとんだ作品だとは思わなかった。


もしも日本人が最終兵器を発明したら、というスペキュレイティブ・フィクションだったのである。アメリカの水爆実験で誕生した怪獣が日本を襲うのに、この映画の日本政府はアメリカを非難しない(本作はサンフランシスコ講和条約の2年後に公開された映画だ)。「事実は事実だ!」と叫んで、ゴジラの存在を国民にしらせるべきだと訴える婦人議員を菅井きんが演じる。


日本の人民が、主権を得て、すべての事情を知ったうえで、納得して自死する。そういうファンタジーの象徴として、芹澤博士が描かれる。疎開について考えることを面倒くさがり、ダンスにふけるカップルが、まずまっさきにゴジラに殺されるのも、なにやら意味深である。宝田明河内桃子カップルの結婚への障害として平田昭彦(芹澤)が配されているのもいい。


戦後の幸福とは何かをうまく考えることができないままかりそめの主権を取り戻し、生活もようやく楽になりかけた、そういう時期に「理想的な戦争の終わり方」を考えた。『ゴジラ』はそのような映画だったのだと私には思える。


東宝特撮が1960年代から急速にバラエティ番組化した理由を考えているのだが、やはり、終わりの先を考えることができなかったからなのではないか。自死した芹澤の「幸福に暮らせよ」という言葉に呪縛されて、皇太子成婚(映画斜陽のはじまりの出来事)、東京オリンピックから万博、そしてそれ以降の狂騒があったのではないだろうか。


その技術詳細が開放されたオキシジェン・デストロイヤーとして、原発を考えることもできそうである。戦争からの逃避と、熟慮を欠いたむやみな幸福の追求としての日本の戦後は、去年、終了したのだった。