不謹慎なあれこれ

林真須美冤罪説について。私はこの説を週刊誌で読んで、たしかにありそうな話だなあと思ったのだが、しかし、詐欺常習犯だったことを理由に利益のないこと(カレー鍋への砒素混入)をするはずない、とまでは言えないのではないかと最近は思うようになってきた。


人間、魔が射すということはあるものだ。もちろん(混入したことを証明する直接の)物証がないのだから、私はいまもって真須美無罪説だが、しかし、だからといって真犯人ではないとまでは思えないのだ…。

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映画『先生を流産させる会』について。自説への自信に翳りがさしてきた映画擁護論者のブログを読んだ。(http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20120311/p1)。私はこのブログを読んでいて、示威行為のメカニズムの微妙さということを思った。


何度でも注意を喚起したいのだが、半田市の「先生を流産させる会」は、教師へのいやがらせというよりは、仲間内の悪ふざけが露見したせいで大騒ぎになった事例なのである。


うまい例えが浮かばないが、人々が半田市の「会」の男子生徒を憎むのは、天皇制の信奉者が、天皇にパチンコ玉を撃った奥崎謙三を憎むようなものか。奥崎が天皇を狙って果たせなかったように、男子生徒も会の目的を果たせなかった。


もちろん、社会の人々も男子生徒たちが本気で教師の胎児を狙っていたのだとは思わずに、その不敵さに怖気をふるわせたのが大部分だったろう。「もしなにか事故があったらとりかえしがつかない」から、男子生徒が叱られてよかった、という側面は、もちろんある。


私が男子生徒たちから連想するのは、首都大の「ドブスを守る会」である。仲間内の悪ふざけにとどまらずにネットで自分たちの活動を紹介した点は、首都大の学生たちは、半田市の中学生たちよりも幼稚であった、とさえ言えるかもしれない。


首都大の学生たちは、自ら「犯行声明」をだして己をのっぴきならない立場に追い込んだが、私は、半田市の事例をどう考えたものかと思うのだ。教師の自らへの処遇に腹をたてた生徒たちが、とくに自分たちを何とかの会などと規定することなしに嫌がらせをしていたら、というパターンを想像するのである。


半田市の事例は、女子生徒による男子生徒らの非行の発見と別の女子生徒による通報がなければ露見しなかった、ということが、重要なファクターとしてあるのである。まずまっさきに教師自身が男子生徒たちの非行を認知したら、たぶん表沙汰にならない方向で事件を処置したのではないだろうか。


犯罪者や非行者の心理学は複雑なものだが、半田市の男子生徒は「先生を流産させる会」を内々にしろ名乗ったということが興味ぶかい。この名乗りがあることで、ただの物質にすぎないDNAがRNAと交差して複製されしまいには一個の生物になるように、報道が生産され、映画が創作され、さらにその論評が交わされるまでにいたったのだ。


殺意のない行為に殺意を読み込んで自己欺瞞し、また他者にもその瞞着を衒うというのは、いたって創作的な行為である。悪ふざけする人間が抱く内面の複雑な過程は、簡潔に論述するのがなかなか難しいもので、自己欺瞞に手を染めつつそのことに自覚的であることで、自分は自己欺瞞をしていないのだと自己規定するという、幼稚でしかも複雑なプロセスが、男子生徒のなかに存在したのだろう。


リンク先のブログ筆者はどうやら女性のようで、もちろんちゃんと調べていないので間違っていたら謝らなければならないが、女性が良く言及し、一部の利口な男性もまた指摘する「女性蔑視」というのは、男性側からすれば蔑視ではなくて「自分が女性ではないことの不思議さについての表明」というほうがしっくりくる。不思議だ不思議だでは話にならないから、一部の愚かな男性はこの不思議さへの不快感を梃子にして性差別主義を信奉することで、この不思議さから自己を開放しようとする。私はアマチュアの科学者だから、不思議だね、そしてまだこの理由は解明されていないね、で終わりである。男女論でまっとうでありかつ面白い話題というのは、あまりない。


私も男性なので、なんとなく判るのは、半田市の男子生徒が女子生徒だったらと発想することの「善意」である。事実とは何か、とか、創作とは何かということに関しての、男と女の解釈の違い、映画の作り手と受け手の解釈の違い、ニュースを受け流す人と、ネットで論評しないと気がすまない人との解釈の違い、などなどが複雑に、整理されないままに、ネット上で展開されているようである。人が死んでいない殺人事件を解くような気分である。


映画のタイトルを擁護する人は、半田市の男子学生もまた擁護しなければ論理的ではない、と私は思うのである。私は大塚英志宮崎勤を擁護したのと同程度には、半田市の男子生徒を擁護してもいい、と思うのだが。この騒動が裁いたのは半田市の男子生徒たちではなく、報道に論評しなければ気がすまないまでに傲慢になった私たち自身である。