心の闇と映画(『先生を流産させる会』)

そういえば心の闇という言葉も、なんだか馬鹿が好む言葉のような気がして、私はまず使わない言葉である。心というのは、通常他人には見えないか見えにくいものとされていて、さらにその奥かどこかに陰になっている部分があってそこになにやら汚らしい何者かがうごめいている、ということなのであろうか。


非破壊検査というものがあって、これは建物などの強度を調べるのに実際に強い衝撃を与えて壊してみるわけにはいかない場合に採用する方法なのだが、命の大切さについての仮想的な非破壊検査として、古くは宗教説話、現在では映画があるのだろう。


偉い方があなたをお創りになったのだから、あなたは勝手に自殺して偉い方の仕事を台無しにしてはならない、というのが例えばキリスト教の自殺禁止、ひいては他人も殺してはいけないことの理由付けである。生命尊重の原理が、他人の財産権を尊重することの原理(についての虚構)に根拠づけられて考えられているのである。


映画『先生を流産させる会』は、胎児を殺す少女を描くことで、生命の尊重について考えるアプローチを採用している。日本の平均的な「生命尊重説話」は、「殺そうとしても殺せない人物」を描くことで、人間は基本的に人間を殺せないのだという類型を表現して、表現の受け手に、その類型こそが人間の真実で、観客であるおまえもこの類型に嵌らなければならない、というメッセージを強制してくる。映画のスタッフは、日本の平均的な行き方とは別の方法で、生命の尊重ということについて考えてみたようだ。


半田市の男子生徒による少年非行としての実際の「先生を流産させる会」は、席替えなどについての教師の指導のやりかたに不満をもった男子生徒が、明礬や食塩などを毒物に見たてて教師に毒を盛るという儀式的な悪ふざけをした、というふうに報道されている。映画では、この順序を逆転して、映画オリジナルの理由付けによって女子生徒が薬物を女性教師に盛り、女性教師が報復的に席替えを中止する、という物語に改変されている。


どうも世間の一部の人たちが半田市の男子生徒を悪魔化することに躍起になっているようなのだが、半田市の男子生徒たちがやっていたのは、「儀式」なのである。私は、どちらかというと、面倒なことはとにかく上部に報告してしまい、自分で決断する責任を免れようとする学校や教育委員会が、愚かな中学生の幼稚さをそのまま世間に通報したことのほうが、男子生徒たちのイタズラが具える悪徳よりも、より悪徳の度が高いように思うのだが、どうだろうか。教師たちが男子生徒を本気で叱って、しかしそのことは世間に対しては黙っていたほうが、よほど教師として徳性の高い行いであったろうと思う。幼く愚かであるから学校に通うのである。教師が生徒の愚かさを引き受け世間にたいして彼らの秘密を守れなくてどうするのだろうか。


半田市の男子生徒が「先生を流産させる会」を立ち上げるさいにいかなる準備をしたのか、報道ではよくわからない。しかし、実際に悪ふざけに参加していない男子生徒も「先生を流産させる会」に所属していて、教師から事情聴取をうけたそうだから、なにか名簿のようなものはあったのかもしれない。映画の『先生を流産させる会』では、女子生徒らが秘密結社まがいの団結の儀式をとりおこなうシーンが描かれる。


半田市の「先生を流産させる会」の事件(マスコミの送り手と受け手が勝手に事件化した事例にすぎないと思うのだが)と、映画『先生を流産させる会』の関係について、制作者が実際の事件からいくつかの要素を改変したことを、悪徳であると判断する人々がいるが、たとえば、DieSixxさんや近藤史恵などだが、この立場は、半田市の事例の男子生徒たちの思想が映画に採用されなかった理由を、映画の制作者が男子生徒らの醜悪さについて愚かさゆえに気付けなかったか、同性のプライドゆえに目をそむけたかったから、としているようだが、それは本当だろうか、と思うのである。


もし忠実に半田市の事例を映画化するとすれば、「度胸がなくて報復とも言えないような報復しかできない自分に、しかし誇大な名称をあたえることで自尊心をなぐさめる」いたって幼稚な少年の肖像しか描くことはできないのではないだろうか。それはそれでちょっとしたコメディの小品をつくることができそうな気がするが。近藤らは、半田市の少年たちの行いの幼稚さを切り離して、その思想の邪悪さをことさらに重視するのが気になるのである。


鑑賞前の人の興を削ぐことはあまり言うべきではないので注意しながら書くが、映画『先生を流産させる会』は、ある特殊な女子生徒の存在を主人公の女性教師があらためて知るという物語なのである。物語の構成がそうなっているので、女子生徒の邪悪さについての考察は、後景に退き気味になっているのが興味ぶかい。あらためて、ある種の現実を女子生徒からもたらされた女性教師が、どのように変貌するのかを、観客は注目して欲しい。