あれこれ

東大生が不謹慎な冗談をツイッターに投稿して、東大準教授の人がこれを憂慮して制裁的な対応の可能性をツイッターで言及したら、さらに「外部の」ツイッターアカウント複数名から東大純教授の人の行き過ぎが議論される、という展開が、去年、震災後すぐの時期にあったらしい。


私はこの準教授の人を知らなくて、上記事例も携帯のツイッター画面で知ったので、準教授の人のことを検索することに思い至らなかった。で、いまPCでそれをして、背景事情が得られたわけである。得たのである。あはは。


不謹慎という状態、公共ということの状態、各種の性質についていつも考えてしまう。「場」というのは客観なのだが、自分がそこに入り込まないと、あんまり自分にとって役に立つように機能してくれない、など。


公共での各人というのはブラックボックスなのだなあということを最近とみに思う。私はフロイト心理学やユング心理学に、自分の心を知るためのホビーとしての価値しか認めなかったが、果たして、他人の内部を知るための技術としては、どうなのだろうと思うのだ。


表現する人の内面は、フロイトユングでけっこういいところまで行けるのだが、大事なことは、多くの人は、そうそう表現なんてするものではないのだ、ということだ。普通の人は、証拠を残さない。「そんなこと言ったっけ?」である。


ユーモアは大事なものだと私も思うが、しかしそういう感想から一番遠いものがユーモアであるとも、私は思う。要するにデモーニッシュな心の躍動を、どこまで他人に見せるべきなのかということである。


私が都会から動かず、畑も耕さず、家畜を捌くことなく、海に漁をするために出ることもなく、なのに生存していられるのも、要するに、人々の心の躍動を介助することで金銭を得ているからである。このブログは私に金銭的利益を生んでくれないが、しかしそのかわりに、私の心が高度に躍動することを目指した文言を記録することに私の心を使用させてもらっている。


都市は、証拠が乱舞する世界である。証拠をかき集めて、それを価値づけすることに都会の人は汲々とする。カフカはこういう世界のことを早々と文章世界にまとめて社会に遺した。都市は古代からあり、文章も古代から残っている。しかし、その文章が世界としても機能することを人々がメッセージに残し始めたのは、言い換えれば、散文とリアリズムと統計の勃興は、どうも数百年くらい前からであるようだ。


だから、都市ということについても思うところがある。災害で都市インフラが破壊されて、それを復旧させるのは大変な事業である。地権者の寄合い、自治体担当者との意見交換を追ったドキュメンタリーをちらっと眺めていて思ったのだが、日本の家屋というのは、屋根があるから建増しが難しそう、というよりももともと建て増すことをあまり勘定に入れていない建築方式なのかな、ということである。


都市について考えることは、要するに平和について考えることだ。平民というか、身分制度が生きていたころは平民という発想もあまりなかったと思うのだが、下っ端仕事しか与えられていない人間は、家族をつくることが社会から想定されていなかった、そのことの意味を反省するべきだなと思うのである。


イエを包む建物として「家」があることの意味。仕事の意味。存在の意味。各人の心のデーモンをどこまで開放していいのか。都市の問題。情報空間の問題。不謹慎の問題。