現代の自我の病と、著作物の尊厳について

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 これは面白かった。いま私は、ジェームズ・キャメロンが『アバター』を作った意味についてあれこれ考えていて、それは要するに創作物は作者の分身であるのか否か、といったようなことで、この現代のいきすぎた(?)情報化社会における作者と享受者をめぐる関係のグロテスクさというものを、このトゥゲッターは、まざまざと私に見せつけた。


 さきほどは「分身」と言ったが、『アバター』のアバターはどちらかと言えば義体と呼ぶべきであろうか。私は残念ながら近藤ようこさんの御本は拝見したことがなくて、私は最近は漫画と言えば滝田ゆうつげ義春の作ばかり眺めているのだが、近藤さんはトゥゲッター構成者に採用されたつぶやきにおいて、自分の著作、それも新刊という属性をもった「義体」の行く末を心配されているのである。小谷野さんはかつてブックオフに直行させてもいいから新刊を買ってと訴え、兵頭二十八(ひょうどうにそはち)はかつて鍋敷きにしてもいいから新刊を買ってと訴え(記憶違いかも)、故山本夏彦(エッセイストで出版社社長でもあった)は人数分買わずにグループで、かつて自分が出版した本を一冊だけ買って回し読みしてノートをとった元大学生らの「苦学の思い出と感謝のことば」を苦りきった顔で受け取った。


 私のような貧乏人の家にまである『アバター』のブルーレイ。これは中古で買ったものだが、これもジェームズ・キャメロン義体であると強弁すればできなくもない。義体を手に入れて、数時間自由自在に動くことができる。キャメロンは映画を畢竟そのようなものであると結論付けて、喝破し、それも強く喝破し、ふたたび世界の王となったのである。しかも、この考えはなんら独自のものではなく、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』や『マトリックス』を、すこし、しかし上手にひねっただけのものであるのも、私は面白いと思うのである。キャメロンの賭けは、どちらかといえば立体映像のシステムづくりにあって、こちらは誰でもできるといったものではない。


 有償と無料と身体との関係といったことも、思う。私は病的なところがあるから、映画もしばしば病的に楽しんでしまう。一般の人は、映画は一度観てしまえばたいていそれっきりだが、私は繰り返し見てしまうのである。こういうことはおたくであれば一般的な、それこそよくあることかもしれない。しかし、つぎが普通のおたくとちょっと違うところで、その経験を財産と思いたくないのである。自分の経験を宝物として大事にしまいこむおたくもいるだろう。反対に、他人が煩わしく思うまでに周囲にむかって宣伝し、喧伝し、伝道していくタイプのおたくもいるだろう。私は、そのどちらでもなくて、私の体験が私だけのものであることを否定したい、という矛盾した意識を抱いているのである。


 私もまた現代人として、他人が病むような自我の病をごく平凡にうじうじと病んでいるのである。自分の収入を自分が見る景色(映画ばかりではなく、漫画もそういう「景色」の一部)を選択する資本に充てなければならない。この現代の掟に、名もない読者大衆ばかりではなく、ジェームズ・キャメロン近藤ようこもまた、制限されているのである。『アバター』が2D映画でしかない可能世界に、もはや私たちはアクセスできない、そのような歴史に私たちは属してしまっているのである。私たちは歴史を自由に選べたりなんかはしない。


 トゥゲッターに採用されたつぶやきのなかで、いつから乞食がこんなに偉そうになった云々ということを書いていた人がいたが、じつはそれはちょっと違うのである。現代の社会は福祉が発達している建前になっているので、社会の不備が生み出した乞食はいないことになっているのである。乞食がいるとしたらそれはかれが趣味でやっているのであり、趣味として選択されているのだから、乞食にかぎりなく近い乞食のようなものでしかないことになるのである。乞食のふりというのは、これはすぐれて現代的な自我の病、いいかえれば精神の病であって、自分は乞食ではないという確信があることで、かれはやっと乞食になることができるのである。「クレクレ君」というのは、そういうものである。過去、乞食になるリスクがリアルかつ頻繁に社会には存在したが、それに対して、現在ではバーチャルな生老病死愛別離苦に苛まれるという、そういう宿命を人類は背負っているのである。バーチャルな乞食はバーチャルな喜捨を求めているのであるから、実際に喜捨が得られるかどうかは、(驚くべきことに)実は二の次なのである。


 創作物は商品となることで、みずからを創作物であることから遠ざける。ろくにマルクスも読んでいないのになにやら無茶なことを書きはじめたが、続ける。作者にとって、自分の作品が創作物であり同時に商品であることを社会に要求するのは、法外なことであろうというのが、私の感覚である。創作物は「私の志集」として、道ゆく人に配ったり、展示頒布会をひらいて市民センターの会議室を借りるなりすればいいと思う。そうやって頒布したものだけが「創作物」である。「タダで配る」という表現に、近藤ようこさんも読者大衆氏もすこしくこだわったが、やはり両氏においてともに「配る」ということへの想像力が衰えていたようである。同人誌などはもともと多く買われることを想定しないから、利益はあまり予算に盛り込まれない。別途徴収した同人費で補填するのが普通である。


 だから私は、非売品として存在させられた創作や著作物に対しては、公の場で論評してはならないと思うのである。アクセス制限がかかったものをブレイクしてはいけないと思うのである。尊厳は、そういう形でなければ、守れない。しかし商品の論評は、逆に、社会にとって必要なことでさえある。


 商品という存在は、相対性を必須のものとするが(昨日のヒット商品が明日のゴミ)、著作物には、通常、ひとつの心の状態しか搭載しておくことができないのである(青春のころに出会った書物に一生影響される)。著作物を商品化することの問題、あるいは現代の自我の病の淵源がそこにはある。


 ああ、たかが映画について、たかが漫画についてこんなに熱くなってしまった。いや、たかが世界について語ったのである。