事実らしいことに関する隠微な忍び笑い

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120813


「断片」と称するわりには、散文的にとりとめなく続く小谷野さんの手記である。「さらに三、四年前の話だが」などと書けばよさそうなところを「もうそれから三、四年以前のことだが」とするなど、どの時点を現在時制に決めるかといった、初歩の文章作法に混乱があって、はらはらさせられる。


 こういう話題に客観をもちだして「牧」を怒らす「私」の主観が、しかし「断片」には客観的に書かれていないのである。小谷野さんは牧をこそ一人称の話者として設定した小説を書くべきだろう。あるいは牧に週刊誌を紹介したことをあれこれ思い悩む「私」の懊悩が書いてあれば、まだ読者である私は楽しめただろう。でなければ、面白そうな話題を提供して自分の無聊を慰めるかに思われた「おかしな子」が、案外自分を楽しませないのでこれを疎ましく思うに至った、飽き易くて共感能力に乏しい冷たい男の残酷な内面を表現するのでもいい。


 大村壱岐子のモデルが誰なのか知らないし興味もないのだが、この、蓋然性によりかかった話柄でもって有名文筆家と馴れ合いトークを交わしたがるという、よくいるタイプの女の存在が、文系領域における「実証」の不可能性について、ポルノグラフィ的とさえ表現できるほどの破廉恥さ赤裸々さでもって、証明している。文系領域が表現することのできる「事実」は「私は私が言及した事象に関心を持っています」ということだけなのである。私はかつて宅八郎の本を読んで、宅の報われない情熱に涙するべきであるという意味のことを書いたが、どうやら涙するべき対象は宅に限らないのであるらしい。


 小谷野さんに関して思うのは、小谷野さんこそは、小谷野さん自身が自分で表明するのよりもより深く1980年代のニューアカデミズムに傷つけられた存在なのだ、ということだ。2ちゃんねるを自分の居場所に決めている人も、たぶんニューアカデミズム、あるいはそれに近縁する文化思潮の被害者なのだと思う。この傷は一生拭えないのかもしれないし、精神分析が説くように、傷ついた自分への自覚を極めれば、ある日突然解消されるものなのかもしれない。大したことのない自我を、微妙で繊細なかさぶたが包みこんでいる。