『エディプスの恋人』

20年ぶりの再読。手部高校というのがテーバイのもじりであることすら中学生の私は分からないで読んでいた。思いのほか文体が村上春樹に近いなあ。村上が筒井から影響を受けたというよりも(しかし読んではいただろうが)、筒井も村上も旧来の近代文学の文体から遠ざかった結果たまたま似てしまったということか。エディプスの恋人とは母親のことだという、わりと明瞭な謎かけが、しかし私の心にはいままでまったく浮かんでこなかった。なんだろう、連想を抑圧する動機が私のなかにあったのだろうか。この小説から後、筒井康隆はわりとふつうめの娯楽小説から遠ざかってしまう(『歌と饒舌の戦記』などはあった。あ、あれを真面目に書き直したのが村上龍『半島を出よ』と言えるかも。そんなこと言ったら『饒舌』自体が矢作俊彦大友克洋『さよならにっぽん』の別バージョンのようなものだが)。『七瀬ふたたび』は映画化できても、こちらのほうはちょっと難しいだろうな。

『約束された場所で』

出た当初も読んだはずだが、気持ち悪くて、オウム信者たちの発言部分は流し読みしかできなかった。いまはもう時間が経ってしまっているから、わりとふつうに読めた。自我っていうのは(慢性の)病みたいなもので、ようするにあることははっきりしているのに見えない。見えないものに振り回される人が、たとえば新興宗教の信者となって日常生活から離脱する、というひとつの具体的な行為を採ることで、自分が見えないものに振り回されているという観念的状況を視覚的かつ社会的に明瞭に表現するわけだ。宇宙の真理ともいいかえられるような何ごとかを言語でもって確定することに急な人たちは、男っぽいというか、ようするに馬鹿にみえる。村上がすぐ後に「言葉は石になる」と書く(短編「タイランド」)気持ちも分かる。幹部たちはいい人だけど末端信者はキモいと、率直なことをいう女性の元信者には笑った。

論述的正確さから離反したがる「サブ文法」

というのが日本語にはあるのではないかとおもうのだが…。言葉であって言葉でない、要するに「心である」という感じを込めたがるのが日本人というか…。英語あたりには、すぐに成句慣用句をつくりたがる「ブロック化動機」が強いのではないか。

カルト宗教を考える時には、言語という観点から入っていくのがあるいは近道なのかもと思えるような…。