小島信夫「小銃」

新潮現代文学37の版で読んだから、巻末の著者略歴と照らし合わせて、創作が多く含まれているらしいことはわかる(暗号兵だった)。でも、小島が捕虜の処刑の場にたちあったことくらいはあっただろう。

不倫のテーマがすでにあらわれている(といっても著者三十代後半の作)。回想として描かれるシーンでは挿入はないのだが、しかし女は自分が身ごもった子が夫の種ではなくて主人公の種なのだとほのめかしてもいる。

江藤淳の「人間原理」

『自由と禁忌』のおわりのほうで、江藤淳安岡章太郎の『流離譚』と島崎藤村『夜明け前』を比較している。その前提として、それぞれの作者がともに同じくらいの年齢で仕事に着手し(五十代後半)、同じくらいの時間をかけて(5年ほど)、同じ時代をテーマに選んだ(幕末から明治にかけての先祖たちを描く)ことにふたつの作品の共通点を見ているのだが、そして両者の違いに敗戦と占領体験の有無を挙げているのだが、私はこれはなんとも無茶な組み合わせだと思うのである。江藤は敗戦と占領のことを特にいいたいがために作家ごとの個人差を無視しているのだ。戦争がなかったら安岡は『夜明け前』のような文体で自作を書いたとでもいうのだろうか。こんな発想こそ放恣な空想と断じるべきである。こういうのも「語るに落ちる」の範囲にはいるのではないか。

「自己」は「内部告発」の「内部」に相当するか?

そして、これは「菊池涼子シリーズ」つまり『美人作家は二度死ぬ』『中島敦殺人事件』のパクリだ、という妄想が始まる。(http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110121)

「妄想へつながる」のほうが修辞としてはふさわしいような気がする。

それにしても、佐藤亜紀のほうは小谷野説の見立てに異論はないが、片岡直子のほうは私はいまだに小谷野説に諾えない。片岡直子はすくなくとも、小池昌代岬多可子がおなじ詩作サークル?(かつて作った「インスピレーションの範囲」のコピーがみつからないので記憶に頼るが)に所属していたという事実を、読者に知らせている。

関係妄想とそうではない内部告発との境界について専門家がどう判断しているのかは知らないが、私は、佐藤説と片岡説では言説の構造が違うと思うのである。あるいは、片岡直子のいうことも関係妄想と看做していいのかもしれないが、それならば、たいていの批判が関係妄想になってしまうだろうと思う。片岡の主張は、小池の表現が岬のそれと類似したことが偶然であったならば、小池の、サークル同人への無関心を証明することになるからである。端的に、佐藤亜紀平野啓一郎への非難には、こういう「二段構え」の構造がないのである。無視されたことをもって、自分の言説の正しさの証明にかえようとする(懸賞商品の発送をもって当選通知にかえるような)「虫のよさ」があるのである。