ヴィスコンティ『ベニスに死す』

いまごろ見たのだが、あまり若いときに見ないでいて、それで良かった気もする。素晴らしい作品。

私はマーラーの伝記をある程度知っていたので、前半で可愛いアシェンバッハの娘が出てきた時点で、すでに胸が痛んだのであるが、これは家庭生活も破れ芸術生活も無調音楽の台頭によって敗北した芸術家の死出の旅を淡々と描いていて素晴らしい。劇的でありうるモチーフはすべて空想なり回想なりとして処理されるのである。

トーマス・マンの『ベニスに死す』について、私は橋本治の『蓮と刀』によって先入観を植え付けられたのだが、どうも、これは、私自身がマンの小説を読んだら、橋本とは違う感想を抱くのではなかろうかと思えてきた。

映画は、抱える荷物が多すぎて身動きできなくなった「ヨーロッパ」が「コレラ」(黄禍論?)によって滅ぶ話なのである。40歳まえのトーマス・マンは、それほど敷衍して考えなかったのかもしれないが、ヴィスコンティはあきらかにそこまで拡大して作品世界を考えている。なにしろ、ビートルズすら解散したあとに発表された映画なのだ。無調音楽の台頭でさえ過去の話という時点に、当時のヴィスコンティは立っていて、だからマーラーのアダージェットが、ここという場面で一回きり使用されるのではなく、全編にわたって何度も何度も繰り返して使用されることには、芸術の消費社会論的な意味をすら彼は付与していたのかもしれない。

この映画で一回きり使用されるのは「第三交響曲」の方で、実際のオケの演奏が一度BGMとして、劇中でシェーンベルクに相当する登場人物がピアノで一度演奏する。第二の標題が「復活」で、第四で「天上の喜び」を歌っているので、ヴィスコンティは第三を「昇天」のモチーフに擬したのではないか、というこれは私の深読みなのだが。