性に関する随想

ビデオを大量に借りてきて見まくっていたら、たまたま性について考え込んでしまう作品の流れになっていた。

『ベニスに死す』で、年老いたバイセクシュアル監督によって、若さへの羨望と、女への失望が描かれているのを見、『動く標的』で60年代ロスの乱倫を垣間見、『カジュアリティーズ』で戦場におけるレイプの「必然性」を見せつけられ、『インテルビスタ』でセックスよりもオナニーにのめり込む若者に理解を示す老マストロヤンニを眺め、『ヒッチャー』において古典的とはいえないような出会い方をするボーイ・ミーツ・ガールの物語が、サイコパスによって無惨にも文字通り引き裂かれるのを目の当たりにして、これはどうしても性って何とおもわざるをえないのだ。

性というのは、社会をうごかす動因だったものが、いまや記号になってしまったのだ。社会は、自分たちが望んで性を記号にしてしまったくせに、自分たちの選択の結果が、目の前に現出することにたじろぎを隠せないでいる。

ここで私のことを振り返れば、私は幼児期から性については逃避的だったからなあ…、という、あまり社会化されていないだろう感慨が浮かぶのだ。

私は空腹を感じることに病的な恐怖感があって、だから10代からずっと肥満していたのだが、同じように性欲を感じることにも抵抗感があって、カントのように律儀に定期的に排出を繰り返していた。

性という、この茶番は、いったい何だ。というのがいちばん正直な気持ちで、根っからの個人主義者というか、孤独癖というか、そういうものに私は浸されている。

しかし、私は、脳化人間の鑑のような奴だねえ…。

茶番も何も、それがなければ人類は存続できないわけだが、義務ってのはいやなもんだねえと、個人主義者は述懐してしまう。

こういう関心の流れと関係あるのかどうか、トーマス・マンといっしょに、なぜか南条あや卒業式まで死にません』を買ってきて、読みたくないのに無理やりに読もうとしている。こういう人が実際にいて、私と関係なく人生行路を進んで、私より後からそれをはじめたのにもかかわらず、私よりも先にそれをよしてしまった人がいる、という厳然たる事実。

しかしまあ、より正確に言えば、現代人は性を記号化したというのは、記号化したと思い込んだというだけの話なのだ。人間は活字や映像ではないのだから、生々しい剰余があるわけでね。

この私の感覚は思い込みなの? 事実なの? そんな空しい堂々巡りをしていてもしょうがないのに、現代日本人は、他民族を直視せず、異性を直視せず、幼児を直視せず、老人を直視せず、宗教を直視せず、ケータイやパソコンの画面ばかりを直視して、これからもやっていけると思い込んでいる。やっていけるわけはないんだが…。

赤信号みんなで渡れば怖くない」ってのは、もはや「進め一億火の玉だ」と同じような、遠い過去のスローガンとなったのだなあ。

言論が消滅し、もはや何でも「関係ないっしょ」で済ませてしまう社会では、性について語ることも無意味な空語にすぎない、と…。