殺人論そのほか

「わが心のよくて殺さぬには非ず」と親鸞が言ったのは、私見では別に深遠なことを言ったのではなくて、素質のない人間には殺人はできないということに過ぎない。もちろん戦争とか異常な状況は別として、日常的なあれこれから人を殺す人というのは、元来そういう素質を持っていたか、生育過程でそういう素質が身についたかである。たとえば私が、にっくきあいつを殺してやろうと思っても、できないだろう。それは私が善人だからではなくて、そういう素質がないからである。

 自殺もまた然りで、そういう素質のない人には、よほどのことがない限り自殺はできない。よって、自殺する人は心が弱いとかそういうことはなくて、自殺しない人はそういう素質がなかっただけなのである。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080530

軍隊の新兵訓練も、人間は人間を殺せないという前提からはじまっているらしくて、それを殺せる人間にするにはどうしようかという工夫から成立しているそうですが(刺すよりは撃つ、撃つよりは砲撃する…)、たしかに殺人については、たとえば秋葉原のあいつも、これからいろいろ情報が出てくることでしょうが、今知られているだけでも、高校からの粗暴歴、借金、失職への恐怖、孤独、オタク趣味、…これらのいくつか、あるいは全部を背負っている男は、日本にけっこういるはずですが、じゃあそういう彼らが殺人に走るかと問えば、さすがにそんなことはなさそうにも思えて、しかし自殺には、素質があってはじめてする自殺と、素質がなくてもできる自殺とがあるような気がします。方法にもよりますが、自殺は他人に迷惑をかけることがあっても、危害を加えることは珍しいのだし。とはいえ、最近では、飛び降り自殺や、硫化水素自殺の巻き添え、という場合が報道されていますが。

そして、秋葉原のあいつは、トラックではね、大声で叫びながら人を突き飛ばす拍子にナイフで刺す、という方法の「殺人」で、私なんかは、日本軍のバンザイ突撃を連想したのですが、ヤケクソゆえの突撃殺人というのは、わりとハードルが低いのではないか。

自殺は自分自身の問題なので成功するか未遂に終わるかですが(狂言自殺というのは自殺と関係ある行為であって、自殺そのものではない…)、殺人は相手が必要なので、その実態にもグラデーションがある。おんなじ事態にも、傷害か殺人未遂か、ちがうカテゴリーのどちらかに振り分けられて量刑が違ったりする。

粗暴な人間は、だいたい粗暴であり続ける。快楽殺人犯は、捕まるまで殺人を犯し続ける(加齢によって捕まらずに「引退」してしまう場合もあるらしい)。しかし、ある加害者が、ある被害者一人を、「殺し続ける」ということはできないわけで、つまり、殺人犯が近所に住んでたらこわいというのは、人を殺したこともある粗暴なやつが近所にすんでいたら怖いということであり、要するに乱暴者が怖いということであって、殺人犯であることの要件は消滅してしまうのです。建前上不死である社会が、人という生物の条件を、みずからに組み込みきれていないがゆえの限界がここに表れている。

要は死刑が復讐になるかどうかは、それこそ科学ではない信念の問題になるしかないのではないか。死は現実であり、死刑は刑罰であり、執行は儀式であり、復讐は観念であり、ようするに複雑で難しい。

複雑で難しい信念の問題を解決するのは、昔なら王の掟で、今は多数決によるしかないのでは…。つまり結局は論理を超えた力が…。