『靖国』というタイトルの映画に、靖国以外のことが描かれていないからといって苦言を呈するおかしな高橋源一郎

 誰も、彼女に、「そのやり方、ちょっとまずくないですか?」とはいわない(ぼくだって、いえない。なにしろ、彼女は間違っていないのだから)。

 監督も、もちろん、いわない。逆に、無言で(カメラで)、「いいねえ。それでいって。どんどんいって」といっているみたいだ。

 その結果、彼女は、ある、狭い場所以外では、孤立することになる(これが「狭い」と感じる理由だ)。

 つまり、他人とコミュニケートすることに失敗する。でも、彼女は、そのことを知らない(いや、もしかしたら、内心では薄々気づいているのかもしれない。監督より、ずっと明晰そうな人だから)。http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20080610

こんなこと言うヤツは女にもてないか、かえって逆に色魔になるかのどちらかだよな、と私は経験から思うのであるが、高橋の場合は…、おっと、中傷は慎むべきだろう。

引用した文章は、陰湿な日本にありがちな人物評価の方法=コミュニケーションの技法の一例であって、こういう文章を綴る高橋は、自分がグルであることを自覚しているのだ(こうやって文章を電子化して布教した「信者」がすくなくともひとりはいたわけである)。こういう人間が、良心ある書き手として看做されうる日本という風土は、まさしくいじめの咲きほころぶ国であることだなあ。

どこかへ戻ってゆくおじいさんたちを、ずっと追いかけていけば、いいのに、とぼくは思った。

 きっと、どこかで、おじいさんたちは、軍服を脱ぐのだ。暑かったから、ビヤホールに入ってビールを飲むかもしれない。そして、靖国のことなんかすっかり忘れて、嫁や、冷たい孫の悪口をいいだすかもしれない。

 その隣の席なら、いても、恥ずかしくないのに、とぼくは思った。

 そこには、たくさんの人がいて、そのたくさんの人たちが、たくさんのことを抱えているのに、「靖国」のことしか撮らないのは、もったいない、とぼくは思った。

 だが、たいていのものは、そうなっているのだ。

その「おじいさんたち」や「彼女」は、あなたを恥ずかしがらせないために、もちろん恥ずかしがらせるためにも、存在しているのではないのだが…。

すでに表現された現実(映画作品)に対して、可能性とか想像力を盾にして、これをけなすという、なんと非科学的な態度であることよ。こんなの、文学以前の宗教ではないか(たいていのものはそうなっているという証拠を挙げよ)。そしてドーキンスの言うごとく、宗教は滅びるべきであると、この私ですら思うのである。