歴史の法則…。

歴史家が歴史を書くというのは、自分の著述の中に世界の歴史を畳み込もうとしているわけですよ。それは人間のもっている欲求なんです。(池田清彦構造主義進化論の試み」『<構造>としての身体』河出書房新社 127ページ)


本当にそうだろうか。ドーキンスの本をゆっくり読むようになって、私は池田の主張をかなりさめた目で眺めるようになってしまった。

(ネオダーウィニスト達が、遺伝子組み換えで新生物ができるのではと期待あるいは危惧し、しかしその不安は杞憂に終わった。その事実は、つまり彼らが実践、応用においては躓いたとはいえ、その理論が誤っていたことをなんら意味しないのではないか。)

歴史家にそんな大それた欲望があるのだろうか。人は、アリストテレスも言うように、ただ知ることを欲するだけで、歴史家は、自らの知識に順番をつけることを好むというだけなのではないか。歴史記述とは、そういうことに過ぎないのではないか。自分の主張が唯一正しいと観念すること(世界の歴史を著述に畳み込むとは、そういうことであろう)は、一部の人間しかなしえない傲慢でしかないだろう。