「私」と「ビンカー」、存在するのは、どっち?

ビンカーというのはリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』で言及した、友達のいない児童の架空の「友人」の名前である。

その児童の人格と、ビンカー、どちらが存在しているのだろうかと考えたら、児童本人の人格が存在していて、ビンカーのほうは虚構であると、まあだれでも考えるが、それは、どんな個人にも人格を社会が要請するからである。

つまり、プライドなんて存在しないどころではない、「私」が存在しないのだ。安全保障のための虚構としての「人格」。安全保障の埒外のヒト、痴呆の人や植物状態の人には、だから人格を要求されないのだ。法的には違う話だろうが…。

私が「私の善意」を、ドーキンスの議論に説得されて棄却したときに、必然的に「私」をも棄却することは時間の問題であったのか…。