人格込みの霊表現

Jホラーは、旧来の四谷怪談や番町皿屋敷とちがって、でてくる幽霊に人格を与えなかったことで、匿名性の恐怖を演出したわけだが、幽霊に人格を付与することの気持ち悪さというものも、ないではない。

人が信念を持っているときのその主観と客観を同時に映像にしてしまうと、要するに「シックス・センス」方式になる。つまり、ある人にしか見えない幽霊を、実際の役者が、合成や光学処理など使わず、ただそのままに演じ、監督はそれを撮る。

昔のお化け映画は、匿名性をもたない固有の個人を、しかし照明を当てたり、合成によって半透明にしたりすることで、幽霊として表現した。

なにをごちゃごちゃいっているのかというと、幽霊として特攻隊員を表現したら、右翼に狙われちゃうかなァ、というわけである。しかし靖国神社とは、そういうことであろう。

石原慎太郎シンクロニシティなどオカルトや、仏教や、特攻隊にアプローチするときの様子をみていると、実存主義者、世俗主義者の好奇心のようなものを感じるのだ。キリスト教的神までは信じないが、世界の法則のようなものはあるのではないかという。

リチャード・ドーキンスは、同僚の科学者たちに、なるべく神という語を使ってくれるなと提言してはいるが、彼らに教会に行くなとまでは言っていない。この機微は、たぶん尊皇家ではないだろう石原が、日本のひとつの政治的アイテムとして靖国神社に入れ込むのに通じているのではないかと思うのだ。

そういう石原が特攻隊を幽霊ではない存在として描いたのは、穏当な科学的態度であるとすらいえる(!) なにしろ幽霊なんて存在しないが、人が獰猛に闘争することは事実なのだから…。

私たち戦後の日本人こそが宗教を信じているのだ! このことをいまいちど真面目にふりかえった方が、ためになるかどうかはともかく面白いとはおもうのだ。さあ、靖国神社に特攻隊員が徘徊する映画をつくろう!