自我

私はドッペルゲンガーの話を怖がらないほうだが、永井豪の「霧の扉」は怖かった。昔命を助けられた恩人に、年齢を重ねた自分がそっくりになっていくのに気付く話。時間がからむと怖く感じるのは、漱石の「夢十夜」に通ずるところがあるかなと思うのだ(だから「霧の扉」の主人公に降りかかるオチは、それほど怖くない)。自分に出会った、というだけでは唐突すぎて怖くはないのである。

西洋人は日本人よりドッペルゲンガーの話が好きなのではないかと思うが、どんな理由があるのだろう…。日本人はあんまり自我の唯一性みたいなことは信じていないんじゃないかと思うが…。少なくとも私は…。いま自分が考えているようなことを江戸時代の人間も考えていただろうし、室町時代の人間も、飛鳥時代の人間も…。