一次元ということ

線分に「T」と記号をふって、点を書き込み、時間のながれを表現する…というこの方法は、つまりは方便であって、時間そのものを表現しているわけではないのだ。二次元の紙に書いていることなのだから、端的に見直すことができる。見直せるものが時であろうはずがない。

思考という現象が持続性をもつので、吉田健一は時間を語るというよりは思考の持続によって時間を創出したのだ、と解釈すれば、これはこれで、あのエッセイは見事なものと言ったほうがいいのだろう。エッセイ『時間』は、『時間について』と改題できないものであるのだ。

豊かさ、などというと、形容詞に「〜さ」を付して名詞化することを嫌った吉田に叱られそうだが、吉田の『時間』はいわゆる「時間」ではなく「リッチな時間」になってしまっている。思考が文章によって二次元のものとなってしまっているからだ。たとえば日下武史内田百輭の朗読を聞いたことがある)に朗読してもらって、音声で鑑賞したほうが、さらにエッセイ『時間』の純度は高くなるだろう。しかし音声もまた空気の振動であって、一次元のものではありえない。

言葉は共有できるけれど、主観は共有できないのだ(心は共有できない、と言っていないところにご注意)。しかし、主観のリアルさ以上にリアルなものは他にないという不思議。