都会にも農村にも無意識はない。どちらも実用の場であったから。

フロイトユダヤ人でヒステリーを研究していたなんて、まさに「郊外」の事象ではないか。二十世紀にはいってフロイト思想が浸透したのも、聞く耳を持つ「郊外」が育ったからである。

農村や都会にこそ宗教があって、郊外には宗教は必要ない。生産する努力がいらないわけだからね。努力に対応するものとして神の恵みがある。実用からきりはなされたことへの不安を解消するものとして無意識が注目されたわけだ。

そういえば養老先生、ゲームの音楽を自作したいとかなにかのエッセイでいっていたなあ。やはり先生も郊外の人なのではないかと思うのである。都会にも農村にも「趣味」なんて無用の長物だから…。