性的半幻論 その三

あらゆる文化は表現であって、表現として出されたものは限定的であるから、たとえば宗教という文化は通常は偶像をつくる。

後発の宗教が、偶像を否定したり一神教になるのは、先行する宗教を否定したいという気持ちのあらわれだろう。岸田先生は、一神教の神と世間教の世間を対比して、後者は人の気持ちにもとづくが、前者は架空の存在だとしているが、これは疑問である。

一神教の神は、ようするに父親というものの心理的属性を抽出した「存在」で、まったく空想的な事象とはいえない。一神教の神と同程度には、世間教の「世間」も架空の存在である。世間は個人のことをそんなに気にしていないのは、神が個人のことを実は気にしていないのと同じことだし、世間の噂というのも、噂の内容によって流通するわけではない。噂をつたえる人がかかえる陰湿な喜びを共有するのである。

キリスト教の僧が、子供をつくらない建前だったのも、僧の目前にいる信徒が、すでに「子供」であって、僧は「父親」として信徒をみちびかなければならなかったからだろう。プロテスタントが勃興して、僧が公然と妻帯するようになったときには、すでに西洋の世俗革命は時間の問題だったわけである。