性的半幻論 その七

野菜だって丹精こらしてそだてたら愛着がわくのに、それを市場へ出さなければならない。野菜どころか畜獣ならその悲しさはひとしおであろう。私が農村の悲哀ということで連想するのは、歌の「ドナドナ」である。

ヒトと自然とが協同して作物を成し、それを都会へ引き渡さなくてはいけない農村の悲しみというものがあるだろう。ヒトとヒトとが協同して事業を成し、それを他の都会や農村へ引き渡さなければいけない都会の悲しみというものもあるだろう。もちろん、農村だってヒトとヒトとのつながりが大事なのだが、都会には緩衝材としての自然がないので、ついヒトとヒトとのかかわり合いは都会の事象であると錯覚してしまうのである。

村、ムラ。ムラ社会などと簡単にいうが、村というのは、だれか領主に支配されているという条件が必須なのである。村だけが小宇宙のように他から孤立して存在しているわけではないのである。

閉鎖社会としてのムラは、どちらかといえば非定住の放浪グループがそうであろう。ヨーロッパで各地の人々がロマ族をジプシーとして差別していたのも、つまり、定住グループが構築したまがいものの「村」が、ほんとうの「村」をまえにしておののいて攻撃したというわけである。

都市と農村が「ある」と思うのが、つまり幻想なのである。現実に外在するのは土地と建物でしかない。ある土地におけるそれらの密集度をはかって、ここは都市である、ここは農村であると勝手に言っているだけなのである。