父の代理物としての世界

「父殺し」を明瞭にしたくない心性というものが、戦後綿々と続いてきたということだろう。父から遺産を受け取るということにたいする内心の葛藤というものから、戦後の人間は逃げすぎたと思うのである。

この時期に『卒業』を見たのはいい勉強になった。マイク・ニコルズシドニー・ルメットシドニー・ポラックなど、デ・パルマやスコセッシやルーカスやスピルバーグよりもすこし前の世代の面々に興味が出てきたのである。デ・パルマたちは、この並びでみると、あきらかに何かから逃げている気がするが、どうだろう。闘争心が父へと向かわずに、「世界」にむかってしまった感じがしないだろうか。

1930年代生まれの作家から、創作における父への眼差しが、世界への眼差しへと巧妙にねじ曲げられはじめたのではないかと思うのである。そういう意味でいえば、江藤淳には「世界」を対象とすることなく、健全に父や母を話題にしていた気がする。その健全さに、戦後生まれの者たちはいらだったという側面があるような気がするのである。そして反対に、若者たちは英語やフランス語しか話せないくせになぜ世界を語るのか、という気分が江藤の側にはあったのではないかと思うのだ。

石原慎太郎など、自分が父親であることや息子たちについては倦まず語り続けているけれども、自分の父についてはあまり語らない。外側からみているといかにもバランスが悪いと思うのである。まあ直近で言及した映画評論家も…。

父の話をせずに「世界」の話をする先駆者が、日本では、1920年代生まれである三島由紀夫安部公房だったわけである。この二人は父を語らず、世界を語ったから若者たちに受けたのであった。

1960年代に、何かが起った、ということになるのだろう。父殺しをせずに、いつのまにか一人前ということになっている、という人物類型がでてきたのである。『卒業』の主人公は、健全であろうとして終盤に行動をおこすけれども、それが成功したかどうかは観客にはしめされない。マイク・ニコルズはとりあえず先鞭をつけたということである。

スピルバーグの映画で、独身者が主人公となるのは、イメージに反してけっこう遅いというか『1941』からである。『激突!』の主人公も、『未知との遭遇』の主人公も、単独で行動するが家族持ちなのである。1980年代のスピルバーグは「独身時代」だったのだともいえる。『レイダース』『E.T.』『魔宮の伝説』『カラーパープル』『太陽の帝国』『最後の聖戦』『オールウェイズ』…。