『ぐるりのこと。』(性的半幻論 その九)

父親との関係がうまくいかなかったことが心のしこりとなって、思うような人生をおくれないでいるリリー・フランキー演じる夫が、やはり同じように両親との関係に葛藤をかかえているいる木村多江演じる妻が精神に失調をきたす事態に遭遇する。

つねに半端な仕事に固執し、妻以外の女にちょっかいをださずにいられない夫の造型と、あらゆることに計画性でもってたちむかうために、イレギュラーな事態に直面すると簡単に心がおれる妻の造型が好対照である。みていて、妻に対する夫のフォローがぬるくていらいらさせられるが、わりと後半にさしかかって、夫のひとしれぬこだわりが見えてくる。

妻がおかしくなって立ち直る物語を、夫が人生に納得して、腰掛けとおもっていた仕事を正業として受け入れる物語でサンドイッチする形式になっているわけだ。

絵にうちこむ木村多江の眼がいい。眼という器官は、対象をみつめるためのもので、自分の心をのぞきこむためにはできていない。眼によって外部をつかみとり、それを心の中にコレクションするためにできているのだ。

義母と疎遠だった義父をたずねて、夫は妻と名古屋へ出向く。夫が描いた義父のスケッチによって、倍賞美津子演じる夫の義母が、子供たちについていたウソを告白し、義母がいれこんでいた宗教の瓶が割れる(このあたりはできすぎである)。『ヴァイブレータ』では寺島しのぶが盛大に吐いていたが、感情的なクライマックスが形成されて、たまっていたものが一気にざばーっと解放されるのである。夫も、ここで過去にあった父親との関係を義父とやりなおすことによって、成長するわけである。(夫の前から遠ざかったり、ふとあらわれたりする柄本明演じる記者との関係も興味深い)

人間をうつしとる法廷画家の仕事と、映画監督の仕事がかさなっていく。

裁判の描き方が、アメリカの映画における告解室のようだ。これはちょっとした発見というか、発明ではないか。日本では「告解室」に傍聴人がどやどやとはいってきて、被告や証人の告白を聞くのである。コートで応酬される原告と被告とのやりとりを、陪審員が足し算引き算で判定するのとは微妙に違うようである。

つまり裁判の場というのが、私は自己をかく認識しておりましたと告白する場なのである。自己認識とは、つまり自我の幻想であって、傍聴人は、文字通り、傍らで聴くしかないのだ。横山めぐみが演じる娘を殺された資産家の妻が証人として出廷し切々と悲しみを訴えるシーンには、考えさせられるものがある。貧乏人の女が資産家の女をねたんでその娘を殺すなどという事件は、飲みの席などでこころない者から「金持ちがいい気になっているから酷い目にあったんだ」などと論評されてしまう事件だろう。その情理を資産家の妻も薄々承知していて、しかしそれを認められない。片岡礼子演じる犯人は、その情理が裁判官や傍聴人にも共有されていることを知っているから(!)対象の定かではない相手にひたすら謝るだけなのだ。もちろん、たとえ実際にあの資産家の妻が、尊大で無神経な人間だったとしても、娘を殺されていいということになりはしない。

あえていってしまえば、自己認識が空虚であるという事実を確認する場なのである、法廷というのは。どれだけ生い立ちを語ったところで、そのことと当人がしたこと/されたことは因果の関係を結ばないのである。これにたいして、家庭というのは、事実を実証する場ではない。木村多江が演じる妻は、はじめは家庭というものを「生活を計画的に実行する場」と規定することで、かなしい事故である娘の死を、余人の数層倍の強さで引き受けさせられてしまうのである。生き死には計画に収まらないから。リリー・フランキー演じる夫は、家庭というものにつかずはなれずの距離を保つことで、自分の世界を手放すまいとしている。どちらも間違っていたわけである。家庭というのは、社会からの緩衝地であるのだから、事実などには向き合わなくていいのである。気が済むのなら、いくらでも墓をつくって拝むべきである。寺島進安藤玉恵演じる兄夫婦がずっと金の話で小競り合いをくりかえしていたが、金というのは、事実そのもの、社会そのものの表現なのであった。