引きずりおろす力としてのデストルドー

究極の引きずりおろしはもちろん殺すことだ。ベトナム戦争のあの有名な拳銃で捕虜を射殺する映像を思い出す。第一次世界大戦は映像で報道された最初期の戦争だったが、検閲があったとはいえ、フロイトもいろいろ見たくないものを見てしまったのではないか。


たしかに人には他人をひきずりおろしたい欲望がある。リビドーの力で充満した自我が空白へ解放されたいとする傾きが、あるいはデストルドーといえるかもしれない。逃走犯が逮捕されたときにもらす「つかまってほっとした」というつぶやきなど、これの端的な例であろう。処罰されるのだから、かれにはこれから不快でしかない現実が待っているのに、しかし安堵するのだ。これはリビドーの心の動きでははかりきれない。


人は誰かしら他人を尊敬しなければ自我を安定させることはできないが、しかし尊敬ばかりもしていられないわけである。あるいは反対に、軽蔑ばかりもしていられない。他人を引きずりおろすことで社会に地位をえたビートたけしは、しかしプライドの置き場所を探しあぐねて、フライデー事件を起こしもしたし、自殺願望を映画に表現しもしていたのであった。