一般性への義理立て

しかしとはいえ、「危ないですか」「よろしいですか」となると、これらはさらに誤用の印象を私に与えない。明治になって形式上でも身分は平等であることになって、客観性や一般性の概念に無理矢理馴染まなければならなくなった日本人の混乱がこれらの表現に表れているのではないか。江戸時代なら、目上に対しては「お気をつけ下さい」、目下には「危なっかしいぞ」など、表現がそれぞれ全く違っていただろう。無闇な用語規制なども、こういう混乱に起因しているのではないか。

これらの表現は、どちらも、話題に上った対象の価値が、話者にも聞き手にも同等のものであると、話者が看做していることを含意している。しかし、話者にとってはよろしくても聞き手にとってはよろしくないことなど、いくらでもあるだろう。つまり、江戸時代には、なにかが危険であるかどうか、よろしいものであるかどうかを、身分を越えて確認しあうシチュエーションなど存在しなかったであろうということである。「ですか表現」は、やりとりの相互関係が平等であるふりをして、その実、話者は何らかの前提を聞き手に押し付けてくるから、聞き手によっては鬱陶しく感じるわけだ。