『ライ麦畑の守護天使』

どうも裏側からキリスト教をえがいた小説だなと思ったのである。

主人公のホールデンは、自分の身の回りから、順番に、友人やら教師やらが信頼に値しないことを説きはじめ、彼らから「解離」していく。学校を捨てて、家庭に戻る前に、都会に立寄り、「よりどころ」を断片化して、趣味に戯れる浮き草のような暮らしもまた否定する。自分よりも社会的経験の少ない妹に信頼を寄せる主人公だったが、妹が主人公と行動をともにして社会からドロップアウトする決心をみせると、これに動顛する。

娼婦とぽん引きのたわいない要求を、頑としてききいれず、主人公は彼らから痛めつけられる。傷ついた自分を、ホールデンは似たような強情さから自らの命を絶ったジェームズになぞらえているのだ。ジェームズに憧れる一方、そのようにはなりきれない自分。

ホールデンに大人への道を諭すアントリーニは、あるいは「成長したホールデン」だったのかもしれない。ホールデンが被るであろうこれからの困難を思い、胸塞がれる思いにかられつつ眠るホールデンを触っていると、ホールデンが目を覚ます。自分が侵害されると解釈したホールデンはアントリーニのもとを去る。アントリーニのほうは、この程度の傷には慣れている。ハイボールのグラスを手放せないとしても。

他人から一方的に「解離」していったホールデンは、はじめて妹のフィービーから自らが解離される危機に直面する。もしかしたら、ここでホールデンの内面は「破瓜」を迎えて、そのヴァージニティを失うべきだったのかもしれない。25章と26章のあいだにそのような物語が、あるいは演じられたのかもしれない。フィービーが乗ったメリーゴーランドに雨がふりそそぐ。潤滑油にひたされたベアリングが無限に回転するように、メリーゴーランドが停止するシーンは描かれない。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』のようにはいかないのだ。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)