ファックと暴力と夢の誠実な混交

スラヴォイ・ジジェクが「カサブランカ」を例にとって、劇映画においてファックシーンは露骨には表現されずに仄めかされるにとどまる事情について語ったことがあったが、ジジェクはこの作品を見ていなかったのだろうか。

スーツ姿とファックシーンという、認知不協和をおこしかねない組み合わせは、「俺たちに明日はない」のころから試みられてはいたけれど、アメリカ映画においては、どうしてもファックに似合うのはジーパン姿だったり革ジャン姿だったりしたわけだ。

意外と若くして死んでいるセルジオ・レオーネ(生年はイーストウッドと一年しか違わない)の遺作で、映画監督は紳士のスタイルにひそむ獣性をむきだしにして描いてみせた。アメリカ人の描く暴力が、なにか別の衝動の代理表現であることを、イタリア人の作家は明瞭に察していた。アメリカ人が、口にしたくてもできないことを、レオーネはあっさり画面に提示してみせる。暴力は、じつは仕事の手段であって、それは洗練の段階を踏むことを必須とするが(だからこの映画の暴力シーンはそれほど面白くない)、性衝動には理由がない。男がながい躊躇の果てにせっかく愛を告げたと思ったら、女は別れの名残りを惜しむために男に優しくしていたのだった。男の感情は空転し、女を責め苛む。女は喪服のような黒い衣装をまとい、列車で男の土地を去る。万人の恋人となるために。

アメリカがあったからこそ自分は作家になれた。その自覚がレオーネにアメリカ論=映画論=夢理論の構築を促したのであった。

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