『レギオン』再見

なにか胸騒ぎのようなものを感じてふたたび新橋へ。やはりちゃんと見ておいて良かった。

どうも西洋人は現世もまた神によって構築された仮想現実であると思いたいようなのだ。だから幸福や不幸があると。それは神の思し召しであると。

冒頭のモノローグが「聖母マリア」による彼女の不幸な幼少期の述懐である(なんか『ノーカントリー』の冒頭に似ている気がするが…)。「マリアの夫ヨセフ」もでてくる。さらに「ヨセフの父」をデニス・クエイドが演じて、かれは失意の生活をおくっていたダイナー店主なのだが、最後に希望(HOPE)のともしびを点火する。

神の思うことを理解することはできないし、また、理解できても困ってしまうのだ。神は同情の対象になってはならないからだ。

他人をかばって背中を溶かされたパーシーや、ガブリエルに立ち向かったオードリーらがああもあっさり死んでしまうことにも意味があって、ようするに自己犠牲なのだ。死ぬことはしょせんただの現実なのだから、じつは騒ぐに値しないのだ(!)。魂の面倒は神様が見てくれる。

かえって見知らぬ子供を助けようとしたカイルや、神の計画を無視して「幼子イエス」を「異変者」の群れに引き渡そうとしたケイトは酷い目にあう(どっちにしろ死ぬんだが…)。彼らはゲームのルールを理解できなかったり、ルールを無視しようとしたから、ゲームの主催者である神から制裁をくわえられるのだ。



しかし見ていて呆気にとられたが、愛するというのは、ああ、たしかにそうだ、ジープがチャーリーにたいして行ったように行うものだ。信じるというのは、たしかにそうだ、ジープがチャーリーにたいして行ったように行うものだ。

日本人は、なにも愛するばかりではない、信じることもできないのだなあ。範という名の根拠をもとめて、むなしく心の拠り所をもとめて彷徨するしかない民族なのかもしれない。かつては古代中国、いまは現代アメリカと。


さすがに傑作とまでは思わなかったが、しかしキリスト教のベースにある気分を把握するためには格好の教材であるだろう。