物語と疑似イベント、子供の視線

ついちらちら『未知との遭遇』を眺めてしまって、そして思ったのだが、スピルバーグの成功の秘密についてである。

さすがにもう宇宙人を信じていないので、終盤に登場する宇宙人にはいまとなっては「それはないわ」としか思わないのだが、中盤の情報操作や軍隊によるデビルズタワー封鎖などにはいまだにリアリティを感じてしまって、それであっと思ったのである。「そうか、スピルバーグは疑似イベント演出の名手なのか」と。

物語とは、たとえば私が直近に見た『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』のようなものである。言いたいことのために、舞台とキャラクターを用意して、現実の風景のなかに俳優を演技させて映像を得る。

スピルバーグの映画では、無名の人が無名の人のままで画面をうろうろしていて、それを私たちは「リアリティがある」と感受するのである。その風景は、ようするに疑似イベントなのだ。

シンドラーのリスト』あたりからスピルバーグも物語を語ろうとしてあまりうまくいっていない様子なのは、それまでつちかっていた演出作法が彼を縛ってしまっているからだろう。キャラクターの造型を怠ったままでは、物語を語ることは出来ないのである。スピルバーグには霊媒の才能が欠けているのだ。

スピルバーグについてよく語られる「子供の心」というのは、要するに「知らない人々が向こうのほうで何やかやと立ち働いている様子を眺めていること」なのだ。

だからスピルバーグは成功したのだろうなと、今になって私は悟ったのである。大人は子供だったころのことを覚えているが、子供は大人の心を知ったりしてはいない。スピルバーグ映画の観客の方が、物語を求める大人や、(子供の)物語を求める子供たちよりも多いのは、単純な算数の問題であった。