しかし、私は小林信彦がわりと好きなのである

かれ独特のいじけ感覚を好くか嫌うかで、小林への評価は分かれるのだろう。小谷野さんが『うらなり』に猛反発したのは意外だったが、しかし、『素晴らしい日本野球』で小林がひきあいにだした批評家(小林の処女出版『虚栄の市』をけなした)の記述を読んで、やはりこれは小林のほうがうわ手だなと私は思わずにいない。

小林は江藤淳のみならず蓮實重彦に言及することもまれだが、どうせにやにやしながら『オールド・ファッション』など読んでいたに決まっているのである。私のいまの確信を、霊能力者なら「私はいま幻視している」などと表現しただろう。

1950年代に青年期をむかえ、早くから年長の有力者に目をかけられ(乱歩。筒井康隆小林信彦につねに妙な遠慮をするのは、このあたりに理由があるのではないか)、挫折し、とはいえ1960年代と1970年代をしのぎ、あの1980年代を50歳代でむかえた人物には、どうしても興味をもってしまうのである。

いまふと思ったが、小林信彦は、ありようが中島敦に似ていなくもない気がする。自我の桎梏に苦しみ、先例がないと想像力が発動せず、けっこうエロいあたりが。で、まあ、『中島敦殺人事件』のときには、中島敦を低く見る小谷野さんの姿勢に同意したけれども、結局のところその時の私の感想は、裏を返せば「偉いことですなあ」という例のあれにすぎなかったのだなとも思うのだ。小林信彦には不思議な貧しさと豊かさが同居している。