精神分析の時間

いかさんの『母子寮前』評が、どうも私の予想どおりに、いかさん自身の精神分析の材料となってしまったようである。

普通は他人の家庭の事情になど、人は興味を示さないものである。それは、覗き趣味がはしたないからというよりは、言われたことが本当のことかどうか分からないからである。案外大事なことを「本を読む人」は見落とすものである。

精神分析も結局は道具にすぎなくて、それをした結果になにがしかの結論が出たとしても、それに従う必要なんてさらさらないのである。プライヤーがものを鋏んだところで、ドライバーがねじをねじ込んだところで、工作に興味のない人にはなんの意味もない。だからといって工具自体の存在が無意味か、というのである。

いかさんは、なにがしかの事象にはそれをひきおこす原因があるはずだという確信に囚われているのだ。世界がなんだかへんてこないくつかのたんなる偶然の雑然とした集積にすぎないと思うことが、できない。口の悪い人(しばしば精神科医と名乗る)は、その確信のことを「病」と言い換えるだろう。エクリチュールは例外なく病人自身による症例報告である。

じつは小谷野さんの身の上話は、悲劇でもなんでもないのだ。父親と息子の仲が悪く、母親は父親に冷たくされ、それをうらんで死んだ。客観的には『母子寮前』はそういう話でしかなくて、そして、こういう話は、それこそ「世間」にごろごろしている。30すぎた息子の転勤先の住居へ片付けの手伝いにいく母親など、1990年代にはすでにありえなくもない存在であったろう。世間知らずが世間に「世間」を講釈してる。