精神分析がはやるというのがすでに出来レース、マッチポンプなのだ

火のないところに煙は立たないのか、それとも話に尾ひれがつくのが本当なのか、そのあたりはよくわからないが、とにかく、願望と言葉とが相互に交流するのが、ようするに人間の世界であって、交流自体が目的なのだから、言葉を分析して願望をとりだせるとすることが間違っている。水路や電気回路から抽象的な「流れ」を抽出できるとでもいうのだろうか。

かつての精神分析ブーム(小此木啓吾土居健郎岸田秀)も、あるいは江戸ブームも、ようするに、話題にすることで、その話題対象がシリアスに訴えていることを公然と無視するために、人々がしたがう手続きだったのだ。あこがれることで、あこがれの実現をめざすことを、断念できる。ブームだったから、そんなに重要じゃない。ほら、あなたもそう思いたがる傾向が、あるでしょう? わたしたちは群衆にすぎないのだから、はやりものだけが重要なのですよ。