さまざまなスクイーズ

なにをもって自分が搾取されていると感じるかは、人によってさまざまである。佐藤亜紀文学賞の応募作の下読みの仕事をした話を軽くすませたことに私はなにかひっかかりを感じる。私の語彙でいえば、このとき佐藤は「平和ということの実相」に触れたのだ。ここのところをもっと詳細に、克明な私小説として佐藤は書くべきだと思う(もしかしたら書いているかもしれない)(そうそう、倉阪鬼一郎の『活字狂想曲』みたいな感じで)。小説が定期的に途切れなく粛々と人々に供給されていくことの冷厳さを、そのプロセスの歯車になった自分のことを客観的に書けばいいのだ。

私は視覚的な人間なので、映画の物語にはさして興味がない。だから俳優への関心も薄い(どれだけ物語を背負えるかが俳優の仕事だ)。いつからか、私は、私の見ている現実が、映画なんかよりもよほど珍妙、ストレンジで、面白いものだなあと思うようになってしまった。商業映画の自己規制がきびしくなって、あれもダメ、これもダメとなってきたのと軌を一にして、新作の映画を見る楽しみを感じなくなってきた。物語が好きな人は、いまの映画でも楽しめるのかもしれない。私は、そうではない。それだけだ。

小谷野さんにも言外につたわったかもしれないが、私は『母子寮前』よりも『中島敦殺人事件』のほうが好きなのである。「なんとなく、リベラル」も悪くないが、書き込みが少ない。『中島敦殺人事件』のほうは、平和であることの実相を読者に開示する入り口までたどり着いていた。