『ハンニバル』

新潮文庫上巻222ページの冒頭は、原著ではこうなっている。

「NOW THAT ceaseless exposure has calloused us to the lewd and the vulgar, it is instructive to see what still seems wicked to us. What still slaps the clammy flab of our submissive consciousness hard enough to get our attention?」(Thomas Harris "Hannibal")

まあ、「いつでも露にされているものが、わたしたちからみだらで悪趣味なことにたいする感覚を麻痺させているから、わたしたちがいまだにこれは悪いと思えるものを見ることは、ためになる。いまだに、わたしたちのうけいれやすい意識のだぶついた贅肉を、十分な注意を励起するくらいはげしく平手うちするものは何だろうか」あたりが直訳で、

「メディアの絶え間ない騒音が、私達から卑猥さと悪趣味への感受性を奪い去って久しいから、現代でもなお私達の眉を顰ませるものを探すことには意味がある。たるみきった贅肉のように怠惰な私達の感性を、いまなお激しくひっぱたいて覚醒させるものは何だろうか」あたりが、私の訳文といったところ。

(追記。「clammy」で「もの言わぬ」、「submissive」で「従順」なのだから、「ceaseless exposure」に「callous」された「私達」は奴隷のような存在なわけだ。flabはslapの韻をふんでいるので採用されたようなものだし、贅肉は奴隷とイメージ的に相反するから、こちらをあえて訳し落として、「奴隷のように従順で無感覚な私達の意識を、ふたたび外界への注意をとりもどすまでに激しく打つものはなにか」とするのもいいかもしれない。)

http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20110215/p2

「じめついた贅肉」というのは、直訳だが、よくないのではなかろうか。clammyの語釈に「(パンが)生焼けの」というのがあったので、飛躍しているかもしれないが、「たるみきった贅肉」にしてみた。

(また追記。そもそも「メディアによって感覚が麻痺しているから、大衆はより刺激的なものを求める。現代であっても大衆のその種の欲望に応えうる見せ物とは何か」と、普通に言えばいいのに、「it is instructive...」だの「flab of our submissive consciousness」だのと、つまらない皮肉ないし批評を込めようとするからおかしなことになってしまうのだ。トマス・ハリスはslapを、奴隷が虐待されるように打たれることをイメージして用いているのではないかと思うが、それがなぜusにとってinstructiveなのかを説明する前段を設けずに、NOW THATの大文字で押し切ろうとしている。拷問展覧会の客は好奇心によってそこを訪れているのであって、(悪に対する)探究心や求道心に従っているのではない、つまり彼らはまさしく「精神の贅肉」にするために会場にやってきているというのに。原文の段階でダメな表現なのだ。)





リナルド・パッツィがカルロ・デオグラシアスと面会する際の合言葉、「この町のいい花屋を知ってるかい?」「花屋はみんな泥棒さ」。原文だと、"Do you know a good florist in the town?" "Florists are all thieves."となっている。トマス・ハリスフィレンツェを表すのに「Firenze」ではなく「Florence」を用いていることからいって、こちらは完全に超訳だが、「善良なフィレンツェ人を知ってるかい?」「フィレンツェ人はみんな泥棒さ」などとした方が面白かった。