有閑階級と著述

 小谷野・鈴木論争を眺めていて、思ったのだが、要するに純文学を書くのは有閑階級と(貧しくても純文学に特化した一部の)文学青年で、娯楽文学を書きかつ親しむのは亜有閑階級と言えるのではないか。

 この場合の有閑階級という言葉はかなりおおざっぱなもので、私の枠組の中では、人間は有閑階級と亜有閑階級とそれ以外のどれかに所属する。

 究極的には純文学は読まれなくてもいいわけだ。書かれることに意味がある。

 武士とか町人という階級名を用いると、純文学とか大衆文学という概念と輻輳をおこして混乱するような気がするのだ。日本近世以前の文学に含まれることもある難解さは、ある程度以上に仏教に親しまなければわかりづらいという意味での難解さだろうし。

 明治以降を現代としても、哲学にしろ社会学にしろ、なにかしらの学問的バックボーンを用意しなければ、長い読み物は構成しづらい。私小説は、そのバックボーンに記述者の経験をもってくる。文芸に親しむ理由として「ためになるから」というのは、いまでも強力なものだろう。次点が「見聞を広めるため」であろうか(旅行記やエッセイなど)。近世ならなおさら教訓をもとめて本を読んでいたのではないか。もしかしたら「面白いから」小説を読むというのは、社会全体からすれば、いまだに特殊な読書理由であるかもしれない。ここで前に書いた疑問をもういちど繰り返すことになる「なぜお喋りではダメなのだ」と。