「類」についてを一言で

http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano8.pdf

 鈴木貞美の「一日を「昼夜」にわける場合と「朝昼晩」と三つにわける場合では、それぞれの長さがちがう」という文章は、ちょっと不思議というか、たしかに一昼夜とはいうけれど、しかし一朝昼晩とは言わない。端的に「長さ」の問題ではないのではないか。

 昼夜というのは「ひとめぐり」ということであり、朝昼晩というのは、生活における特徴的な状況を示しているのではないか。つまり地球上の24時間を区切るのではなく、起きてから寝るまでを区切ったにすぎないのではないか。

 鈴木氏も小谷野さんもはっきり言っていないのだが、ほんの少し前まで、男尊女卑は社会のあたりまえの原則とみなされていた。もしかしたらいまでも多くの人間の心には、性別を問わず、この観念が巣くっているかもしれない。本質の高い低いは、性別にまで適用されていたのである。

 鈴木氏も小谷野さんも、どうも私を啓発してくれなくて、もちろん防人歌が貴族のミスティフィケーションであることを教えていただいたのは感謝しているが、私は勝手に自分で大きな発見をしてしまった。書かれたものは、言葉である以前に文字なのだということを。文字というのは有閑階級が運用するのである。この有閑階級は、富めるもののことを指すのではない。暇をつくって文字を弄る時間をもつ者が、この場合における「有閑階級」だ。

 そもそも指標をもちだして類について考察することが、どうにも不毛のように思われるのである。「ある時代の支配的な考えは、このようなものであった」時代を大づかみにとらえるためには、当然の方法だろうが、しかし、便宜は便宜でしかない。例外なんかいくらでもあるだろう。円谷一の演出回のウルトラマンと、実相寺昭雄演出回のウルトラマンを比べると、まるで別の番組と見まごうような気になるが(わざと大げさな表現をしている)、ウルトラマンに関心のない当時の大人にしてみたら、どちらも「子供がはしゃいで観る“じゃり番”」でしかない。進化論論争にまつわる不毛さに通じるか。