男尊女卑の周辺

 前に小此木啓吾の本をいくつか読んだときに、日本人としてはかなり過度に核家族であることへの理想を口にするのにひっかかったことがある。世代的なものなのだろうか(小此木は1930年生まれ)。筒井康隆(1934年生)はなにかのエッセイで、大家族への憧れを語ったが、自らは小此木のような核家族を作ったし、愛妻家であることやマイホーム主義であることに開き直ったような発言もしている。

 そしてこのマイホーム主義という言葉が困ってしまうのだ。私の世代というか周辺というか、自分の親がマイホーム主義であることなどはあたりまえのことであって、ようするに1960年代あたりに「図」であったものが、「地」になってしまっていたのである(私は1976年生)。筒井が中年の頃は、マイホーム主義であることは、おどけつつもわざわざ公言するに足ることであったわけだ。

 もう読んでから20年近く経ったのでいろいろ記憶違いがあるかとおもうが、私は筒井が1970年代に書いた短編「平行世界」がいまでも印象に残っている。わりと容易にパラレルワールドに訪問できるという設定の「世界」で、主人公はことさらに自分に似て、そして少しばかりいまの自分より貧しい境遇の「自分」に出会って交流し優越感に満たされつつ会見を終えようとしていたのだが、ただ一点、夫婦関係において彼らはまったく違った状況にあったことが別れる間際に露見する。そのことに主人公は周章狼狽するのだが、これはもしかしたら私の記憶違いで、優越感がひっくりかえされるのは「べつの世界の自分」の方だったかもしれない。

 女にレイプ願望があるというのはまったくの大ウソで、もちろん男にレイプ願望がある。とごくあっさり書くといろいろ差し障りがあるのかもしれないが、そういうものであって、筒井の巧みなのは、さまざまな「自分の可能性」について列挙するような設定の小説を用意して、その最後にレイプという「石」を投下して、読者の心に波紋を起こしたまま小説を閉じるあたりにあるのだ。そうしてみると、やっぱり「レイプ同然に夫婦関係を結んだ」方は、主人公の「おれ」のほうだったのかな。あはは、すると、醜いことは自己からすこしでも遠ざけておきたい心理が、私が受けた感動を無意識裡に歪めていたのかもしれない。

 私はSF小説を読むのが苦痛なたちで、筒井の小説もことさらSFということを気にせずに親しんでいたのだが、上述の「レイプ同然に関係を結んで、いまでも夫婦でいつづけている」関係というものを、なぜ筒井が書く気になったのだろうということが、気になるのである。なにか身近にそういう人がいたのだろうか。その人の存在が筒井を刺激したのだろうか。とにかく「平行世界」には、あっさり捨て置くことができない実感というものを感じるのである。「問題外科」あたりの作り物くささと、ちょうど好対照をなしていると思う。