ふと思う

 たとえば、松村雄策小林信彦ビートルズ論争は、松村が終始慇懃に論を進めていれば、松村の圧勝であったのだが(追記。いまウィキペディアの「ビートルズ論争」を見返したら、それほどでもなかった)、松村には松村の盲点があって「作家たるもの」式の道徳観を小林に押し付けたので小林がいらついて論争が噛み合なかったという経緯がある。ビートルズが対象ではなく「自己」になってしまったから、というべきか。鈴木貞美のいう「対象として研究するということが、この国では、どうも根付いていないのですね。研究するのは、その対象のファンであるかのように考えてしまうのですね」というやつである。

 その鈴木も、あはは、やっぱり「適視」を看過しえなかった。自分だってタイプミスを連発しているのだから許してあげればよかったのに。