『東海道五十一駅』

「ロクシィの魔」という短編が未読だったので借りたのだが、その経歴に田中康夫をモデルに求めたりもしている中堅作家が主人公の小説で、彼は睦月影郎小谷野敦自身を作者がこきまぜたとおぼしい存在だ。作者が別の場所で激賞した睦月の情事日誌は、私はこれを読もうとおもいつついまだ果たせない。


その口調に筒井康隆の文体を読者に容易に想起させつつも小説は主人公の述懐・くだけた報告調に終始する。内容は面白いけれども、小説としては散漫で、作者は虚構の存在である主人公の生活を、立体的に造形する作業を放棄していて、かえって散文特有の砂を噛むような味気なさを、自分の作業が帯びてしまう過程に淫しているようなのだ。読者よりまえに自分が楽しんでしまうようなものに読者がつかないのは、悲しいが仕方のないことで、編中、自分の境遇をめぐまれない子供に仮託して涙ぐむ借金女に、主人公があたりさわりのない感想を口にして、かえってその配慮が癇に障って借金女が主人公に食ってかかるというシーンがあるのだが、この小説そのものが、主人公がしたあたりさわりのない感想と似たような、あるいは同じものなのである。私は私小説が何であるかを堂々主張するほどの意見も意識も持たないが、しかし著者が書くに足ると思ったことを、心の中で整理し彫琢した上で読者に披露するという行いに当然私小説も虚構小説も含まれるはずだと思うのである。借金女たちをもっと掘り下げて新稿を編みなおすか、手軽な女に惹かれて容易に縁を切る主人公を見つめなおして新作を物するか、作者はしたほうがいいと思う。