『母子寮前』を単行本で再読した

以前読んだのは雑誌に掲載されたときのことで、しかも立ち読みだったのに、本文のだいたいが記憶に残っていたことに驚いた。立ち読みで熟読していたなんて、本屋には迷惑な私だったと思う。


初読時から印象に残っていた箇所がふたつあって、単行本では41ページにあるデジャ・ヴュの講釈と、103ページの「死んだ出版社の社長は…」からはじまって「…あとで調べたら、本番なしのソープらしい。」で終わる段落である。


心理学の本などで既視感のことをどう解説しているのか知らないが、これを「誤認識」であるとするのは少数例なのではないかと思うのだ。「気分」と表現したほうが良いような場合に「認識」とか、それに類する語を使うのは、これはもしかしたら小谷野さんに限らず、ある種のインテリの通弊なのかもしれない。小谷野さんはなぜか「気分」という語彙を使用することに抑制的で、いま猫猫ブログで検索をかけたら、まったく使用しない月があったりするという頻度である。私がデジャ・ヴュを日本語に移すとしたら、「場違いな懐かしさ」あたりを選ぶ。


「死んだ出版社の社長は…」の段落は、はじめて触れたときから私は全く感嘆して、もちろんそれはひとつの段落のなかに死と食と性のモチーフを盛り込んで、なおかつイレギュラーな事態に翻弄されて疲労している語り手の、物事への集中を妨げられて気が散っているあの感じがいかにもよく表現されているからで、名文といえばこれほどの名文をこの数年で私は他では見ていないと言っていいくらいの、全く会心の表現である。