普遍についてのある種の錯誤

DVDで繰り返し見ていたら、だんだん『インセプション』が好きになってきた。


劇場で観たときの理解には、間違いもあったようで、この作品はやはり、最初は日本語吹き替えで見たほうがいいのではないかと思った。DVDには、ポルトガル語吹き替えの音声も収録されており、BGVとしてこのバージョンを楽しんでいる。


この映画の前提として、夢のことを、自由に創造を満喫できる空間として扱っていて、これは日本人にはすこしなじみの薄い感覚なのではないかな、と思った。


日本人は、夢を、与えられるもの、別世界への入り口と解釈することが多いのではないか。夢を、自分が日常叶えられないことの埋め合わせとして創造作業を行う空間だとは、日本人はあまり考えないような気がするのである。


天地創造の神話が、ユダヤ教キリスト教記紀神話でまるで違うのをみても、そう思う。日本神話の神々が、「光あれ」などというのは考えられない。アマテラスは必要に応じて隠れてしまったりもする。


インセプション』で面白いのは、長大な時間をどのように表現するかということについて考えをめぐらしているところだ。


映画の上映時間は2時間半あって、そのなかで、旅客機内におけるインセプション(信念の植付け)行為の実際と(10時間)、パリ郊外での主人公たちの事前準備(数日)などが描かれる。それらの「現実」に平行して、夢の中の描写も行われて、そこでは一瞬が永遠の長さに引き伸ばされる夢の層が存在する。この映画の世界では、夢は地層のように層をなしているのだ。


そういえば、私たちは先んじて義務教育の理科教育でもって、最初から地面には地層があることを、教科書や教師たちから教わっているが、地面にも世代の違いがあって、それが積み重ねられてきていることを、知識の介助なしに、自分ひとりで知ることは難しいだろう。だから、日常生活で崖を見ても、その「模様」を、「崖には模様がある」とだけ解釈して、それ以上に考察が進まない人だって、教育のない時代にはいくらでもいただろうと思うのだ。


正直いって、その考察をエンターテインメントに昇華する試みは、あまりうまくいっているとは思えないが、とりあえず『インセプション』は、宗教から距離を置きつつ、「永遠」を、2時間半で表現してみたわけである。平然と宗教となれあってそのうえで永遠について考察した映画は、わりとおおくあって、最近の作品で印象的だった作品に、ダーレン・アロノフスキーの『ファウンテン 永遠につづく愛』がある。


胡蝶の夢というのは、映像で表現しやすいようで、案外そうでもないようなのだ。私がかつてみたなかでいいなと思った表現は、『10ミニッツオールダー』のどれかの短編の中の、老農夫だったか老役者だったかの現在と若いころを重ね合わせて映像化したもので、しかし、これもまた数十年という歳月の重みを表現しえているものの、やはり「永遠」とはちがうものだ。


やはり永遠という概念、観念は、言語での伝達を必須ないしは至上とするものであるようだ。映画は観念を伝えようとしても、どうしても観念の絵解きに堕してしまうもので、実際に永遠ということを考えたときの、自分の頭脳だけでは手に余るあの途方もない感じというのは、映画では伝えきれない。案外、映画本編よりも、映画の予告編の、説明不足で余韻に満ち満ちているあの感じこそが、永遠という観念に親しく触れているような気がする。


あるいはパロディと宗教、このどちらかを経由することでしか、映画は永遠と触れあえないということなのだろうか。『インセプション』は、宗教味はおさえめにしてあるけれども、『2001年宇宙の旅』や『女王陛下の007』『マトリックス』など、過去の映画作品の参照・ほのめかしに満ち満ちていて、これが長い時間(さすがに永遠とは程遠い)を、選ばれた観客に与えることはしている。


宗教があたえる永遠は、宗教外の人間からすれば笑うべき茶番に映ってしまい、パロディがあたえる永遠は、世界のすべてが結局はハリボテにも似た模造のものでしかないのではないかという不安を効用の副作用として表現の享受者にあたえてしまう。あとは薬物の力を借りて、廃人となるリスクと引き換えに「実際に」永遠を感受するぐらいしかない。


商業映画ほど普遍を追求するジャンルはほかになくて、それはもちろん当たればデカイからであるからだが、ジェイムズ・キャメロンなどは鼻息荒いのの最右翼だろうが、彼は宗教ともパロディとも距離を置いて、「愛」と「ロマン」と「3D」という、現世的というべきか正攻法というべきか、そういうありかたで観客に挑戦しているのが面白い。私はあまりキャメロンの映画には感心しないほうだが、多くの人が彼の映画に信を置いているのは、社会のある種の健全さの証拠といったところだろうか。


キャメロンやルーカスは、映画は自分たちのロマンを観客に伝えるための手段であり技術であるとわりきっているようで、スピルバーグは文化としてのパロディとしての参照ソースとしての「映画」に囚われているという感じだろうか。


(この文章は映画の話題に終始してしまったが、ほんとうはユング心理学もそんなに悪くないのではないかという話をしようと思っていたのである。脱線してしまった。長くなってしまったので、いったんこのあたりで切りあげることにする)