普遍についてのある種の錯誤・メモ

数秘術まがいの文芸評論は、小説をなにか「普遍」という氷山の、海面につきでた一角のように思っているのではないか。


そもそも「影響を受ける」というのは、先行するクリエイター(この語は皮肉である)の要素を、馬鹿正直に引き継ぐことであるのか。


数秘術まがいの文芸評論の書き手、読み手は、感動してしまった自分を韜晦したいだけなのではないか。そのために数秘術まがいのことに走るのは、じつはいたって幼稚なことなのだが…。


ある種の健全さからの逃避が、「文化」を構築している。文化外の人間からみたら、その「数秘術」は笑うべき茶番である。


なぜ素直に「感動した」と言わずに、「この対象には受け手を感動させる特質が備わっている」などと言いたがるのか。